今日は、私たちのルーテル教会で、年に一度守る平和主日。
なかなか完全な平和は実現できないけれど、平和を追い求める私たちでなければならない。
なぜですか? 平和がないと生きていけないから。平和がないと苦しく悲しいから。平和がなければ私たちの愛する人、愛するものを守れないから・・・。
皆さん、平和は大切という概念や思いを、何かとても抽象的なものかのように、それは今自分が考えるべきではないかのように思わないようにしましょう。あなたが生きている状況は、おそらく完全に平和な状態ではないにしても、それでもあなたが生きているということは、あなたが生きられるくらいの平和が与えられているからです。平和の問題は、私たちが生きるにおいてとても現実的な課題です。
皆さんにとってもっとも近い人(親、兄弟、友達)との関係が平和でなければどうなりますか?間違いなく苦しいはずです。悩みます。そこ、意地を張って自分が正しい、自分は負けないと強がるべきところではないかも知れません。もちろん、葛藤や思い違いは何らかの形で埋め合わせる過程が必要で、それは苦しくて難しい場合がありますが、自分にとって近い人、大切な人はあなたが単に勝つべき相手ではないかも知れません。その人は、あなたが一緒に生きるべき人であって、あなたが勝利するための人ではないです。それどころか、あなたが自分にとって大切なその人と喧嘩したり戦ったりすることであなたが苦しみます。悲しみます。強がって、自分自身を騙して隠せるものではないです。あなたが苦しむ影響、痛んでいる影響がどこかで現れるでしょう。短期的にも長期的にも、目に見えるところでも良く見えないところでも…現れると思います。
これからも一緒に生きる人で、大切で、愛する人なら、なおさら戦うより和解した方が自分のためです。(こう言いながらも実際の場面に立たされると互いに平和に過ごすのは簡単ではありませんが)平和は、私たちが生きるためにとても現実的なものだということの事例として、まず他者との平和のことを例にあげてみたつもりです。
さて、私たちが生きる国や社会が平和でないなら・・・戦争?その下では私たちの幸せも、日常も、夢も、もうありません。戦争どころか、今の皆さんの生活に必要で、当たり前のように思う環境と状況が脅かされたら?―住む所、必要な経済力、自分と家族の健康―こう言ったもの自体が平和そのものではないけれど、私たちの平和に深く影響します。
さらに平和のことを考えたとき、自分の外部の状況に関する平和だけでなく、自分の心の中の平和もあります。私たちの心が平和でないなら?自分にとって大切な、やるべきことに集中できません。専念できません。生活が苦しくなるはずです。
平和は、私たちにとってとても現実的で、私たちにもっとも必要なもので、私たちがそのために務めるべきもの。自然には来ないもの。守ろうと、見出そうと努力すべきものです。
では大切な平和をどう求めるべきですか?平和主日である今日の福音書の御言葉を通して主イエスは言われます。「わたしの愛にとどまりなさい」。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」。
一言で愛すると言っても、これだけでは何だか大まかすぎるように思うかもしれません。しかしイエス・キリストの愛はどういう愛だったのかちゃんと吟味すると、愛するということは大まかなものではなくなります。
イエスの愛は?単に優しい愛だけではなく、十字架の愛。正しくない人々のために正しい方が犠牲を背負った愛。気持ちの赴くままに好きなように愛しただけでなく、愛するけれど罪人のために犠牲された愛。罪人、敵対する人、憎む人たちのために死ぬまで、愛と赦しを貫いた十字架の愛。「友のために命を捨てた愛」。つまり、相手のために、自分を犠牲にしてでも愛することです。そうです。本物の愛は犠牲と忍耐が伴います。愛は、自分の心地よさ、自分のロマンが愛なのではありません。愛のために自分が損してもいい、自分を差し出してもいいことが愛です。
私たちはそれぞれの形でこの愛を受けて生きてきたのです。あなたのために苦労を、犠牲を背負ってもいい方々のお陰で私たちは愛され、必要な平和が保たれてここまで生きてきていることと思います。それはたまたま?偶然に与えられたものではなく、あなたを愛そうとした存在の意志と努力と犠牲と赦しによって愛を受けたのです。そうでなければ、互いに罪人である人間同士、人と人の間で愛は現れません。愛による平和も現れません。覚えて、心に刻んでください。愛も、平和も、偶然には見出せません。
いつか?またはたまたま…?来ません。愛と平和を強く求めて、それを愛し、そのために自分を差し出すとき、自分の利益ばかり求めず忍耐するとき、赦すとき見出せます。それを究極に、もっとも大きく実現されたところが、イエス・キリストの十字架です。神の独り子が人々の罪の代りに罪の呪いを受け、何も分かっていない人々から憎まれ、神の前で犠牲にささげられる羊のように死なれ、それは神にとって本当の赦しの犠牲となり、神と共に生きておられる。キリスト教会が言い伝えている救いとは究極にはこの救いしかないです。信じる人々はこのように愛された、このように赦された、だから神による救いと永遠の命に向かって生きる希望、生きる道が与えられたのです。
皆さん、共に心に刻みたいと願います。愛と平和はただ自然に来るものではありません。私たちが幼く、未熟な間は、私たちを愛する存在から自然に与えられるものだったかも知れませんが、やがてそれだけでは平和を守れない時期が来ます。愛も、平和も、頭で考えて、力を付ければ与えられるものではなく、私たちがそのために努力するとき、誰かを赦すとき、少なくても愛と平和のために忍耐するとき来るものです。
私の好きな聖句の一つ、愛についての聖句。コリントの信徒への手紙一13章。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
この段落が説明している愛は、「忍耐強い」から始まって「すべてに耐える」で閉じています。本当の愛とはそういうものです。こういう愛から本当の平和も出て来るのです。皆さん、本当の愛と平和を求める人になりましょう。自分の忍耐と犠牲はいやですか?受け入れられないですか?しかし、一最最初に話した話に戻りますが、私たちは平和を失うなら間違いなくすべてを失います。愛と平和を実現するために務める報いは大きいです。別の聖書でイエスは言われます。「平和を実現する人々は、幸いである。」私たちが平和を求めるとき、実現するとき、神様は私たちを神様の子どもとして守るでしょう。
前進する救い
2024年7月14日(日)聖霊降臨後第8主日 夏の召天者記念礼拝説教要旨
アモス7:7〜15 (詩85) エフェソ一 : 3〜14、 マルコ16:14〜29
マルコによる福音書6章:14〜29節
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、あのような力が彼に働いている」と言っていた。そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。、
ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
洗礼者ヨハネという人がいました。
メシア(救い主)がこの地上に現れる前の最後の預言者とされた人。「救い主が来られる道をまっすぐに」、「その道を整える人」として登場した人物。具体的には救い主イエスの少し前に現れて、当時の民衆に悔い改めの洗礼を授けていた人物。だから「洗礼者」と呼ばれる人物。そしてイエスを見て、イエスに洗礼を授けた人物。
しかしヨハネがイエスに洗礼を授けたのは、ヨハネがイエスより偉いからではなく、イエスがいよいよ地上での働きを始めるため、人々に洗礼を受ける模範を示すため、救い主が現われるという預言が実現するため、救いが間近に到来していることが示されるためでした。
新約聖書のすべての福音書はヨハネを言及しています(非常に重要な人物)。「ヨハネは救い主を証するための人」、「救い主が世に現れるために水で洗礼を授けた人」。しかしヨハネの後に来られる方は「聖霊で洗礼を授ける人」だと神様に告知され、ヨハネはこの神様の告知と自分の任務に非常に忠実であった人。ヨハネ自身の証の言葉、「私の後から来られる方は私に勝っている。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。」「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。…しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハネはこのようにイエスを証したのです。
今日の福音書の記録であるマルコによる福音書は、このヨハネがヘロデ王によって処刑された記録でした。当時の王であるヘロデの命令による処刑でありましたが、それが実行されるように働きかけたのはその妻へロディアと言えます。さらにそのへロディアが洗礼者ヨハネを殺したいと願ったのは、自分たちの悪を告発したヨハネに対する憎しみと恐れ…。それがヨハネを殺したと言えますが、この悪巧みがなぜ出てきたのかと考えると、ヨハネの正義感…。権力に怯えず、おそらく死も恐れない、真っすぐで忠実なヨハネだからこの死が訪れたと思います。もしヨハネがヘロデとへロディアの悪さを告発しなかったならこの死は訪れなかったことでしょう。
簡単に要約するとこういう成り行きです。ここでヘロデ王と呼ばれる人は正確にはヘロデ・アンティパスという人物。彼は当時ローマ帝国によって任命された分封王(イスラエルの約1/4、ガリラヤ辺りを統治するように任命された人)。しかし彼は野心家。自分のお父さんであるヘロデ大王が支配していた領土を自分の兄弟と分けずに全部自分が統治したかったのです。狙いはそれです。それで自分の元の妻とは離婚して、自分の異腹兄弟フィリポの妻へロディアと結婚したのです。簡単にまとめれば、それが自分の利益、自分の統治の正当性、自分の兄弟が統治していた地域を自分の統治に変えられる名分になるからです。こういう事例は必ずしも歴史的事実を細かく整理しなくても、だいたいどんなことなのか理解できることだと思います。この世界で、時代と地域を問わず、よく起きてきたことだからです。ここに出ているヘロデ・アンティパスとへロディアはこのために結ばれた夫婦でした。もちろん野心家であったのはヘロデだけではなく、へロディアもそうだったことでしょう。
この夫婦を批判したのがヨハネでした。自分の異腹兄弟の妻を離婚させ、自分の妻にする…。もちろんそのために自分も離婚する…。この時代、王の妻たちも何らか王族あるいはどこかの国の王の娘なのだから、こういう無理な離婚と再婚によって争いと戦争が起きる…。もちろん戦争の犠牲になるのはそれぞれの国の民。イスラエルの律法を持ち出さなくても十分悪い行いなのですが、もちろんイスラエルの律法に基づいてもあってはいけない罪。真っすぐで厳格なヨハネはこれを直接批判し、それによって最初は投獄されたようです。
今日の福音書の記録の描写によると、ヘロデは少し優柔不断だったのか、自分の意に反するヨハネでありながらも彼に対して聞く耳をもっていたのか、またはヨハネやヨハネを敬う民衆を恐れたのか…ヨハネを殺したくはなかったように描かれています。どちらかと言えばヨハネを残虐に殺したのはへロディアの思惑だったように物語られていました。もちろんどちらも悪人ですが…。
さて、皆さん、今日の福音書は何でしょう。今日の福音書の内容はイエス様についての記録ではなさそうです。イエスの奇跡も教えも書かれておらず、ただ「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」と間接的な記述しか書かれておらず、今日の個所の内容はヘロデとへロディアの残虐さ、正義者ヨハネの死のストーリーです。この個所をもって礼拝するように日課とされた世界の教会は、今日はイエス様の福音ではなく、歴史の中にあったヨハネという義人の死を知ることが目的でしょうか。もちろんそれも一つではありますが、私は今日のこの記録の日課を通して私たちが心に留めるべき福音、それは「こうして福音、神の救いは実現に向けて進んでいった」ことだと思います。
確かに残念な死です。しかも残虐です。そしてマルコによる福音書の特徴と言われるサンドイッチ記法(またはフレーム記法)によって、イエスの奇跡の業、弟子たちの宣教の報告の間に、このヨハネの死の記録が置かれています。これは栄えているイエスと沈んでいくヨハネの比較でしょうか。ある人はこういう風に解釈する人もいるようですが、私はあまり賛成できません。もちろんこの場面での、ますます現れて来るイエスと、役目を終えて退くヨハネの対比は意図されたものかも知れないけれど、ヨハネという存在は決して退いて終わり、残念な死を遂げて終わりではないと思うからです。
それどころか、きっとヨハネは自分の死など、自分がどうなるか恐れながら当時の悪を告発した訳ではないはずだし、別の福音書(ヨハネ)によると、彼自らが「あの方必ず栄え、私は衰える」と言っており、「花婿の介添え人は花婿の声を聞いて大いに喜ぶ」ものだと、「だから私は(イエスが現われたことで)喜びで満たされている」と言った人物だからです。
大切なのは福音、神がこの世に与えた喜ばしい知らせ、部分的な喜びと悲しみではなく究極な喜びと救いに繋げてこの世の成り行きと歴史とストーリーを見ることです。今日の第二の日課、エフェソの信徒への手紙の言葉です。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
ヨハネの教えも業も、そして人間的な目では残念で残虐で惨めな死も、救い主の現われとその最終的な栄光と勝利のために通って行く過程です。ヨハネはそのために自分の生涯と業をささげ、「世の罪を取り除く神の子羊」の現われを喜んだのです。そのために自分は低くなったのです。自分の後に来られ、自分に勝る方はこの方だと証したのです。そして世の不義に目をつぶって黙るのではなく告発したのです。正義を証するためのヨハネであり、救い主の現われのためのヨハネです。強くて、真っすぐで、忠実なヨハネだからこそこの役目を、こういう死を遂げたのです。私たちが救いの約束と訪れを聞けるのは、こうして神の計画に従順だった人の存在とその死のお陰です。やがてキリストもこの世においては、十字架の死という時を迎えます。ヨハネと同じく、イエスの死もその瞬間だけとって見れば、これ以上に惨めで残念なものはないように見える出来事です。しかし、それが終わりではないことが大切なメッセージです。その後の復活は、死ぬことをなくしては現れないことが大切なメッセージです。
そのために、敢えて一時の苦しみをキリストは恩自ら、人と同じ姿で受けられたことに、そこに私たちへの愛があることです。それが福音、喜ばしい知らせであり、神の愛と憐みのもっとも大きな現われなのです。
今日私たちの教会は、毎年の恒例の行事として、夏の召天者記念礼拝を共にしています。並べられた写真を見ながら、書かれているお名前と召された日にちを見ながら、私たちはこれらの方々の存在とその生涯を思い起こします。もちろんのこと、この方々も私たちのためにそれぞれの道を通られたのです。
これらの方々を通して私たちは恵まれた、助けられた、育てられた、共に生きた…。ありがたい恵みです。そういう私たちはそこに留まらずその次を見つめ、求めるべきです。この方々のかつての存在と過去もありがたい恵みですが、それで終わってしまうなら私たちは、恵みとしてより小さい方を選び、過去だけを全てと見なし、それだけが慰めかのように、実は憂い悲しむ人に留まってしまうかも知れません。それだけが福音なのではありません。肉において私たちより先に死なれた方々も、そして誰一人残らずこれから死んでいく私たちも、強くて正義と良い業のために生きた人も、そうではなく小さく生きた人も、貧しく苦しんで生きた人も、人間的に幸せそうに生きた人も、その終わりまで平安で幸せだった人も、終わりがもどかしく悲しかった人も…すべてキリストの復活によって神のもとに生きる命が与えられた。このことに繋がるための生涯、労苦、死なのです。キリストはそのために世に来て、死に、なお神と共に生きておられることを、復活を通して示されました。私たちはこのことに望みを置き、感謝し、礼拝しています。
その恵みが皆さんに与えられますように。死によるしばらくの離れから、イエスの復活の恵みが私たちの望みとなり、この上ない大いなる喜びの確信となりますように。
いのち溢れる神の国
2024年6月16日(日) 聖霊降臨後第4主日礼拝説教要旨
エゼキエル17:22〜24 (詩92) コリント二 5:6〜17 マルコ4:26〜34
マルコによる福音書4章:26〜34節
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
聖霊降臨後第4主日・・・この地上に、神の霊であり、イエスの霊が与えられて、その恵みによって礼拝する時代。聖霊が与えられた後、聖霊の導きによってイエスの御言葉を聞き、私たちの命、この地上における教会の歩みに目を向ける期節。イエスによって与えられた聖霊の導きによって、宣教した(している)キリスト教会、成長した(している)キリスト教会もこの期節のテーマ・・・
そういう意味で「成長する種」と「からし種」のたとえ・・・聖霊が与えられた後、聖霊と共に、教会と結ばれてこの世を生きる人々にとてもふさわしいたとえであり、象徴であると思います。
皆さん、神様からの命の種を受けた人は、その種が芽生え、成長し、実を結ぶのを見る人です。神様が育ててくださる命の種を預った人は、最初はその種がどんなに小さくてもそれを受けたならば、それによってもたらされる変化と成長と恵みを見る人です。
私たちはそのためにこの世を生きる人です。そのために約束の御言葉を与えられ、聖霊の導きによってその約束の御言葉が私たちの中に保たれ、まさに約束へと、約束された神の命へと成長していく…それが信仰によって生き、信仰によって育てられる人のこの世の歩みです。
今日の福音書は、「成長する種」と「からし種」の短いたとえ。種が自ら成長するように、小さな種から大きな木になる変化と成長がもたらされるように、「神の国」もこのように「伸びる」、「広がる」、「ますます現われ」、「近づいくる」。少し説明的なことを付け加えて、神の国が一個の「種」自体にたとえられているのではなく(だからその物質的な大きさと質量にたとえられているのではなく)、種が成長していくという性質にたとえられていること。つまり生きて伸び、生きて実を結び、生きて時を迎える・・・神の国、神の国の命は、空間や物質ではなく、だからそこに入れる切符と権利と言った表象的なものではなく、生きて変化し働くものです。
(実は国という概念もそう、単に決まって動かないものではない)この世界における国、国籍というのもそうです。私たちは国と考えたとき、目に見えるものだからその国の地(領土)と考えがちだけど、領土も実はその国に属する一部であって、国とはその国を成り立たせるあらゆるもの、主権、国民、法律、それによる支配、歴史と文化…
同じように神の国とは(この世界の国々と言ったものとは次元が違うものではありながら)、神の主権が支配する世界、そこにおける命。それは生きて働いており、今この地上においても広がりつつあり、信じて人・神の人(子)とされた人は、この世を生きながらも神の国に属する人として生きる。神の国の支配と力の元で生きる。その神の国の力は今も生きて働き、人を守り、人を支え、神の国の命へと導いています。その神の国の働きは、目に見えませんが、今も続いています。
種を蒔いたことのある人、植物を育てたことがある人は、それが芽生え、育ち、花咲くのを楽しみにして見つめる人です。しかしそれを楽しみに見つめる人であって、成長したり、花咲いたり、実を結ぶのを手助けする人であって、その命自体を造り出す人ではありません。そういう意味で今日のたとえの記述は実に正確です!
これは大きな真実です。人間は種自体を造ることはできません。種から、よく育てて、種を増やすことはできます。科学が発達した今、ある種とある種を交尾させてそれが合わさった新しい種を見ることさえできても、初めの種そのものを造ることはできません。
ある種のものはこういう環境で育ち、どういう栄養が必要なのか、「経験的に」知って栽培を増やすことはできますが、最初の種、最初の命そのものを造り出すことはできません。
ある人が「この花をつくった」。「この実を成らせた」。「この人を育てた」…と言っているのは、厳密には間違いであって錯覚です。花も実もその命が成らせたものであって、栽培者はその手助けをしたのであり、人も、その人に与えられた命が成長したことでその人であり、親も家族も師匠もその人が育つ、その人がその人になる手助けと影響を与えるまでであって、「ある人がある人を造った」「今の自分をつくった」というのは人を称え感謝する慣用的な表現なのか、言い過ぎなのか、勘違い…のどちらか。
私たちの目に見える命に関してもこの事柄は大きな真実。大切なのは私たちが作り出すことは出来ず、ただ与えられる命ということ。誰かを育てているあなたも、誰かが良くなって欲しいことを願うあなたも、あなたに命を与えられて、その命を用いてそう願うのであって、その命自体(愛する人の命も、自分の命も)もあなたが造ったものではないことです。
だからと言って、私たちの思いや願い、人間的な働きかけを否定的に思ってこう言っているのではありません。私たちの愛、私たちの願いの役割は命が育って生きるのを楽しみに見守り、助けるのであって、ある決まった姿に「させる」、「つくる」のではないはずです。
種を蒔いた人が「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。その通りです。どんなに優れた経験値も知識も環境もそれが命そのものではないです。実は、実が結ばれるまでは、実が成るかどうか分からないものに変わりはないです。
これは神の国とその命を教えるために語られた主イエスの言葉です。命は神によって与えられたもの。そしてその命を育てるのも実を結ばせるのも、死んでからなお生きさせ、永遠に生かせるのも神様です。神を信じると言うことは、このように命を与え、育ててくださる神の働きを信じ、それに委ねること。私たちはただそれに与り、できることをしながら、それを見守る者です。楽しみに待ち望む者です。
その命の育ちと成り行きを見る中には、どんな種よりも小さい種がどんなものよりも大きな木になる、逆転のようなものを見ることあるでしょう。種の中にどんな命が秘められているかは、種の姿からは分からないものです。
それどころか、成長し、実を結ぶまでの時間と過程も必要です。生きる途中の痛み、試練、苦しみ、悲しみ・・・これらは過程であり、そのときそのときの状況です。植物が育つ間にも寒さや熱さ、乾き、種から芽が出る時の壊れ、身が伸びる時の破れ…色んな段階があります。その時その時の状況を自分の命そのものに勘違いしないように。
人は目に見えるもの、自分の範囲の中で自分が知っているもので判断しますが、神様を信じる人は、命の造り主であり、今も育て、生かしてくださる神によって生きる人です。
皆さんの中にある神の命。それがどのように実を結ぶか、楽しみに生きましょう。希望を失わないようにしましょう。
今日の旧約の日課―若枝から新しい木が生える逆転もあり得ることを語る今日の詩編。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう」
神様はあなたにどんな命、どんな恵みの種を与えられたか…見つめる皆さんでありますように。
天におられるキリスト
2024年5月12日(日)主の昇天主日礼拝説教要旨
使1:1〜11 詩47 エフェソ1:15〜23 ルカ24:44〜53
ルカによる福音書24章:44〜53節
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ナルニア国物語の第1章『ライオンと魔女』にはこんな創造物語が描かれています。(※イギリスの作家であり神学者C.S.ルイスが聖書の世界観とメッセージを伝えるために子供向けに書いた小説)
「初めに歌があった」。「…美しい歌声に加えてたくさんの声が聞こえる」。「最初の歌が星を造り出し…それは星たちを歌わせた声。…さらにたくさんの星たちの歌声が加わる…。」
創世記における神の創造(神の言葉による創造)を、ナルニア国物語は、初めに創造者の「歌があった」ことから描いていました。
このナルニア国の世界では、創造されたもの一つ一つに固有の歌、創造者が与えた美しい旋律が込められているという設定。それが始まりであり、被造物たちはそれぞれの歌をもって創造者の意志に従い、加わる…という世界観。実に美しい世界観ではないでしょうか。
これに基づいて、私が最近読んだ本の著者はこのように言っていました。「星が何であるかを知る人は、星の材料や物質を知る人ではなく、星の歌を聴く人。」「星が伝える輝きと歌を聴く人こそ星を知る人である。」(書物に書かれていた正確な言葉ではなかったかも知れませんが、訳すと『驚異なる世界』より。イ・ジョンテ著)
「一つ一つの被造物には創造主の美しい旋律が込められている…。」この美しい世界観は文学的な視点だけではなく、神の御心と言葉による美しい旋律が込められているという信仰的な視点でもあると思います。だから私たち被造物は生きながら、その旋律によって創造主である神を賛美することが出来る!私たち、神を礼拝する者は、神が創造されたようにこの世界と私たちを見つめる者、「私は神の者である」という視点に繰り返し戻る者だと私は思います。
私たちはこの世界と私たちをどのように見て生きるのか…。その見方によって私たちの生きる姿が方向づけられ、決まっていくことでしょう。言うまでもなく、私たちの世界と私たちの日常においては色んな視点が混在していますが、その中で、私たちは時々、「このように見ろ」、「これが事実だ、現実なのだ」と、世界の見方を強いるように促す視点に囲まれて生きているのではないかと思います。
「今日をどう生きるか」、「生きるために何が必要か」、「明日はどうなるのだ」…。このように強いられるような影響に、その時その時の私たちの感情と思いが加わって、心配と悩みに捕らわれて生きているのかも知れない…。
でも、そうなりがちな私たちが再びそういう視点から離れて、神様が見せてくださる世界(視点)に立ち戻ること。礼拝とは、私たちがこの世界を生きる中で、繰り返し神による視点(神が創造し導かれる見方)に立ち戻る行為だと思います。
私たちは結局、この世界と自分と隣人をどう見るか…その見つめ方を見つけるために、何かを学んだり、経験したり、経験しながら耐えたり、信じたりするのではないかと思います。
さて、今日は主の昇天主日でした。復活してしばらく弟子たちに現れたイエスが天に上げられたことが今日の日課と礼拝のテーマです。もちろんと言うべきか、十字架に付けられて確かに死んで葬られたイエスが復活したこと、そして天に上げられたという出来事はこの世の視点ではなさそうです。しかしそれを体験した人々にとっては確かな真実だったようです。その真実のゆえに、この世の命は捨ててもいいくらいの真実だったようです。それは天の御国における復活の命、永遠の命が彼らにとって本当の命であるゆえに、この世の命を捨ててイエスが約束した命を選んだ彼らの道。選んだというよりそのように導かれた彼らの歩み。彼らの信仰と宣教の延長線上に私たちの教会も、私たちの今日の礼拝もあること、最近私たちは繰り返し確認して来た内容です。
この見方、見方というべきか、この信仰は、この世が与えることのできない慰めと希望、また喜びを与えます。なぜならこの世の死が終わりではないからです。私たちの愛する人の死も、また私たちの苦しみも悲しみも。それぞれがすべてではないことと見つめる見方、まさにこの信仰から慰めと希望、喜びが出て来ることです。
もしも私たちの肉眼で見えるのがすべてなら、人間の科学的な見方のみ真実なら、私たちの愛する人の死も、私たちの死もただそれだけで終わりです。この世界で起きている様々な残酷な現象…?それもまさに「現象」であるのみ、人間の行いによる結果であるのみです。ある無神論者の科学者が地球を離れて宇宙を見つめたときの一言を聞いたことがあります。「(宇宙は)巨大な無関心のみが漂っていた」。無神論者としての宇宙を見つめた結論的な一言、私には印象的でした。
しかし神が存在し、神が見守る世界。神の義がある世界。だからいつかその義による裁きがある世界。それが聖書の伝える世界観です。さらに、実は私たち人間はその義に耐えられない罪人であるのですが、神はそういう私たちを憐れみ、赦し、そのために神の御子を与えられた世界。しかも十字架の死によって与えられたこと、私たちが繰り返し聞いて礼拝する福音の内容です。この御子によって、私たちに新しい命が与えられると約束されています。これを信じる人は、神が与えられた御子イエスによる希望と喜びに生きる。それが信仰による命の姿、命の歩みです。
聖書に書かれていること、今日においてはルカによる福音書と使徒言行録に書かれているイエスの昇天の記録は、今の私たちの日常的な視点には相容れないような記述であることは誰もが感じます。しかしこれを体験した人にとっては確かな、忘れられない体験だったのです。まさにそれまでの認識を超えて、イエスを改めて知って信じたことをこのようにしか伝えられなかったのかも知れません。
これを人間的に読んで、イエスは天に上げられてどこに行ったのか?上げられたというのは本当の体なのか?それはどこに消えたのか?空?大気圏?宇宙?それともこれらは錯視?霊的な体験?
ちなみにイエスの復活を、錯覚や妄想だと言うには、あまりにも多くの人が復活したイエスを体験しました。そして福音書がしつこいほど伝えているように、イエスの復活は一時的な亡霊体験ではありません。(弟子たちが見た天に上げられたイエスは、幽霊でもなければ、肉体でもなく、イエスの復活の体です。)しかもそれを体験し、イエスの復活を信じた人々の働きとそれが結んだ実は、驚異的と言えるほど素晴らしく、尊く、一時的不思議な体験から生まれた者とは思えない生命力に満ちています。それがイエスの復活とそれを体験し、信じた人々の生き生きとした信仰が私たちに伝える世界です。そしてその命に与るように招かれているのは私たちです。実はこの世界のすべての人々です。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。
主イエスの御心、イエスをこの世に与えられた神の御心とは、この世の人々が死の支配に縛られて悲しみに挫けることではなく、信じて生きることです。イエスはそのために死に、復活し、天に上られたのです。
イエスが復活したなら、そういうことが出来る方なら、愛する弟子たちから離れず、ずっとこの世に留まっていれば良かったのでは?と思う方はいらっしゃらないでしょうか。イエスは単に、死んでから生き返られることを見せるために復活したのではありません。ただ神的な存在になるために天に上げられたのでもありません。別の福音書に書かれているイエスの言葉です。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1〜3)
私たちも、私たちの愛する人も、やがて天のみ国に迎えるために、イエスは天におられます。私たちが、毎週の礼拝で唱える使徒信条やニケヤ信条にもその信仰が短くまとめられています。「・・・苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして、全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。・・・」
私たちはどのようなイエスを礼拝し、待ち望みなすか?私たちのために死んで、復活し、天の御国において神と共に生きておられるイエスを礼拝し、待ち望みます。そして天(神の国)において「生きておられる」イエスは今も私たちを見守っています。今日のつどいの祈りの言葉がそのことを捉えていました。「御子は天に上げられ、御座の前で私たちのために執り成してくださいます。」
イエスは本来、神の御子だったから父なる神のもとに行きました。そして神の右に生きておられます。やがて「生きる者」を天国、父の家に迎えるために。イエスはそのために天に上られたのです。そしてただそこにおられるのではなく、私たちのために執り成してくださっています。そしてこの世の信じる人々に聖霊を送られました。聖霊を受けたイエスの弟子たちは、この世を生きた間にも聖霊を通してイエスと繋がって、共に歩んだのです。
偉大な神学者であり、教父であるアウグスティヌスの言葉をもって今日のメッセージを閉じます。
「主が私たちの目の前で天に上げられ、私たちは悲しく振り向いたが、気付いてみると主は私たちの心の中におられた。」
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