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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
室園教会 牧師 活動 女性 青年 中高生 子ども

説教

崔大凡牧師  2020年4月からは室園教会の礼拝で語られた、崔大凡牧師の説教の要旨です。
 どうぞ礼拝で、本物の説教をお聴きください。


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2020年7月12日(日) 安井宣生先生の司式により, 牧師就任式が行われました。 崔大凡牧師は室園教会牧師として, 共に更に歩んで行きましょうと結ばれました。 期待のこもった暖かい拍手で会を開きました。
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説教(2024年)

天におられるキリスト

2024年5月12日(日)主の昇天主日礼拝説教要旨 
使1:1〜11 詩47 エフェソ1:15〜23 ルカ24:44〜53  
ルカによる福音書24章:44〜53節
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ナルニア国物語の第1章『ライオンと魔女』にはこんな創造物語が描かれています。(※イギリスの作家であり神学者C.S.ルイスが聖書の世界観とメッセージを伝えるために子供向けに書いた小説)

 「初めに歌があった」。「…美しい歌声に加えてたくさんの声が聞こえる」。「最初の歌が星を造り出し…それは星たちを歌わせた声。…さらにたくさんの星たちの歌声が加わる…。」

 創世記における神の創造(神の言葉による創造)を、ナルニア国物語は、初めに創造者の「歌があった」ことから描いていました。

 このナルニア国の世界では、創造されたもの一つ一つに固有の歌、創造者が与えた美しい旋律が込められているという設定。それが始まりであり、被造物たちはそれぞれの歌をもって創造者の意志に従い、加わる…という世界観。実に美しい世界観ではないでしょうか。

   これに基づいて、私が最近読んだ本の著者はこのように言っていました。「星が何であるかを知る人は、星の材料や物質を知る人ではなく、星の歌を聴く人。」「星が伝える輝きと歌を聴く人こそ星を知る人である。」(書物に書かれていた正確な言葉ではなかったかも知れませんが、訳すと『驚異なる世界』より。イ・ジョンテ著)

 「一つ一つの被造物には創造主の美しい旋律が込められている…。」この美しい世界観は文学的な視点だけではなく、神の御心と言葉による美しい旋律が込められているという信仰的な視点でもあると思います。だから私たち被造物は生きながら、その旋律によって創造主である神を賛美することが出来る!私たち、神を礼拝する者は、神が創造されたようにこの世界と私たちを見つめる者、「私は神の者である」という視点に繰り返し戻る者だと私は思います。

私たちはこの世界と私たちをどのように見て生きるのか…。その見方によって私たちの生きる姿が方向づけられ、決まっていくことでしょう。言うまでもなく、私たちの世界と私たちの日常においては色んな視点が混在していますが、その中で、私たちは時々、「このように見ろ」、「これが事実だ、現実なのだ」と、世界の見方を強いるように促す視点に囲まれて生きているのではないかと思います。

「今日をどう生きるか」、「生きるために何が必要か」、「明日はどうなるのだ」…。このように強いられるような影響に、その時その時の私たちの感情と思いが加わって、心配と悩みに捕らわれて生きているのかも知れない…。

でも、そうなりがちな私たちが再びそういう視点から離れて、神様が見せてくださる世界(視点)に立ち戻ること。礼拝とは、私たちがこの世界を生きる中で、繰り返し神による視点(神が創造し導かれる見方)に立ち戻る行為だと思います。

私たちは結局、この世界と自分と隣人をどう見るか…その見つめ方を見つけるために、何かを学んだり、経験したり、経験しながら耐えたり、信じたりするのではないかと思います。

さて、今日は主の昇天主日でした。復活してしばらく弟子たちに現れたイエスが天に上げられたことが今日の日課と礼拝のテーマです。もちろんと言うべきか、十字架に付けられて確かに死んで葬られたイエスが復活したこと、そして天に上げられたという出来事はこの世の視点ではなさそうです。しかしそれを体験した人々にとっては確かな真実だったようです。その真実のゆえに、この世の命は捨ててもいいくらいの真実だったようです。それは天の御国における復活の命、永遠の命が彼らにとって本当の命であるゆえに、この世の命を捨ててイエスが約束した命を選んだ彼らの道。選んだというよりそのように導かれた彼らの歩み。彼らの信仰と宣教の延長線上に私たちの教会も、私たちの今日の礼拝もあること、最近私たちは繰り返し確認して来た内容です。

この見方、見方というべきか、この信仰は、この世が与えることのできない慰めと希望、また喜びを与えます。なぜならこの世の死が終わりではないからです。私たちの愛する人の死も、また私たちの苦しみも悲しみも。それぞれがすべてではないことと見つめる見方、まさにこの信仰から慰めと希望、喜びが出て来ることです。

もしも私たちの肉眼で見えるのがすべてなら、人間の科学的な見方のみ真実なら、私たちの愛する人の死も、私たちの死もただそれだけで終わりです。この世界で起きている様々な残酷な現象…?それもまさに「現象」であるのみ、人間の行いによる結果であるのみです。ある無神論者の科学者が地球を離れて宇宙を見つめたときの一言を聞いたことがあります。「(宇宙は)巨大な無関心のみが漂っていた」。無神論者としての宇宙を見つめた結論的な一言、私には印象的でした。 しかし神が存在し、神が見守る世界。神の義がある世界。だからいつかその義による裁きがある世界。それが聖書の伝える世界観です。さらに、実は私たち人間はその義に耐えられない罪人であるのですが、神はそういう私たちを憐れみ、赦し、そのために神の御子を与えられた世界。しかも十字架の死によって与えられたこと、私たちが繰り返し聞いて礼拝する福音の内容です。この御子によって、私たちに新しい命が与えられると約束されています。これを信じる人は、神が与えられた御子イエスによる希望と喜びに生きる。それが信仰による命の姿、命の歩みです。

聖書に書かれていること、今日においてはルカによる福音書と使徒言行録に書かれているイエスの昇天の記録は、今の私たちの日常的な視点には相容れないような記述であることは誰もが感じます。しかしこれを体験した人にとっては確かな、忘れられない体験だったのです。まさにそれまでの認識を超えて、イエスを改めて知って信じたことをこのようにしか伝えられなかったのかも知れません。

これを人間的に読んで、イエスは天に上げられてどこに行ったのか?上げられたというのは本当の体なのか?それはどこに消えたのか?空?大気圏?宇宙?それともこれらは錯視?霊的な体験?

ちなみにイエスの復活を、錯覚や妄想だと言うには、あまりにも多くの人が復活したイエスを体験しました。そして福音書がしつこいほど伝えているように、イエスの復活は一時的な亡霊体験ではありません。(弟子たちが見た天に上げられたイエスは、幽霊でもなければ、肉体でもなく、イエスの復活の体です。)しかもそれを体験し、イエスの復活を信じた人々の働きとそれが結んだ実は、驚異的と言えるほど素晴らしく、尊く、一時的不思議な体験から生まれた者とは思えない生命力に満ちています。それがイエスの復活とそれを体験し、信じた人々の生き生きとした信仰が私たちに伝える世界です。そしてその命に与るように招かれているのは私たちです。実はこの世界のすべての人々です。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。

主イエスの御心、イエスをこの世に与えられた神の御心とは、この世の人々が死の支配に縛られて悲しみに挫けることではなく、信じて生きることです。イエスはそのために死に、復活し、天に上られたのです。

イエスが復活したなら、そういうことが出来る方なら、愛する弟子たちから離れず、ずっとこの世に留まっていれば良かったのでは?と思う方はいらっしゃらないでしょうか。イエスは単に、死んでから生き返られることを見せるために復活したのではありません。ただ神的な存在になるために天に上げられたのでもありません。別の福音書に書かれているイエスの言葉です。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1〜3)

私たちも、私たちの愛する人も、やがて天のみ国に迎えるために、イエスは天におられます。私たちが、毎週の礼拝で唱える使徒信条やニケヤ信条にもその信仰が短くまとめられています。「・・・苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして、全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。・・・」

  私たちはどのようなイエスを礼拝し、待ち望みなすか?私たちのために死んで、復活し、天の御国において神と共に生きておられるイエスを礼拝し、待ち望みます。そして天(神の国)において「生きておられる」イエスは今も私たちを見守っています。今日のつどいの祈りの言葉がそのことを捉えていました。「御子は天に上げられ、御座の前で私たちのために執り成してくださいます。」

イエスは本来、神の御子だったから父なる神のもとに行きました。そして神の右に生きておられます。やがて「生きる者」を天国、父の家に迎えるために。イエスはそのために天に上られたのです。そしてただそこにおられるのではなく、私たちのために執り成してくださっています。そしてこの世の信じる人々に聖霊を送られました。聖霊を受けたイエスの弟子たちは、この世を生きた間にも聖霊を通してイエスと繋がって、共に歩んだのです。

 偉大な神学者であり、教父であるアウグスティヌスの言葉をもって今日のメッセージを閉じます。

「主が私たちの目の前で天に上げられ、私たちは悲しく振り向いたが、気付いてみると主は私たちの心の中におられた。」

信じない者ではなく、信じる者になりなさい

2024年4月7日(日)復活節第2主日主日礼拝説教要旨 
使4:32〜35 詩133:1〜3 ヨハネ一1:1〜2:2 ヨハネ20:19〜31  
ヨハネによる福音書20章:19〜31節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
先週に続き、主の復活を祝う期節の礼拝に私たちが再び招かれました。かつての弟子たちが絶望と迫害の中から主イエスの復活を体験して立ち直ったように。立ち直ったところか、以前とはまったく違った姿で新しく創造された者として生きたように。今日の第一の日課の使徒言行録の記録によれば、主イエスを信じる共同体が物や貧しさに捕らわれずに自由に助け合ったように。主の復活を礼拝する私たちも、復活の恵みによって新しく生き、助け合うことを願い、御言葉を聞きましょう。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」

 「週の初めの日の夕方」とは、イエスが葬られた墓を訪れた女性によって、その墓が空っぽであったこと、主は復活されたという使信が初めて伝えられた日の夕方のことです。弟子たちにもそのことが知らされていたはずですが、弟子たちはまだ信じていなかった状態だと思います。

「彼らは自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」閉じ籠っていました。ユダヤ人たちを恐れていたから…。自分たちの主であり、師であるイエスを十字架につけて殺したユダヤ人たちが、その弟子である自分たちをも捕らえるのではないかと。主を失った彼らをユダヤ人たちは一層攻撃し、弾圧するのではないかという恐れ。それに、ある解釈によれば、主は復活されたということが彼らに知らされていたはずのそのとき、主を裏切り、見捨て、逃げ去ったことに対する罪責。その罪責のゆえに、復活した主が自分たちに現われたとしても、どうしようもない…。むしろ、本当に主が自分たちに現れたら自分を見捨てたことを責めるのではないかという恐れ…。この時点の彼らはまだ主の復活を信じていなかったと思われながらも、主の復活をも恐れざるを得ない、本当にどうしようもない行き詰まりの中に、戸を閉め、隠れるしかなかった彼らだったと想像します。

そういう彼らのところに主が本当に現われました。鍵が掛けられていた家を通ったというマジックを伝えているのではありません。弟子たちの一時的な錯覚や錯乱状態の体験を描いているのでもありません。絶望と恐れの中にいた弟子たちが復活のイエスを体験した記録です。

自分たちの主が復活したことを言い張るために、彼らイエスの弟子集団はこのような作り話を作ったとも考え難いです。それを言い張りたい彼らだったならば、なぜイエスの死の場面で逃げ去ったのか、イエスの死の後もなぜ怯えていたのかつじつまが合いません。しかも後に、彼らイエスの弟子のほとんどは殉教の死を遂げます。イエスの復活を体験した後はまったく新たな姿で、死も迫害も恐れず、むしろ主のためにこの世の命を捨てることを喜んで、ただイエスを宣教する人に変えられます。作り話のためにそうなれるのか…?錯覚や錯乱、または思い込みからあんなに純粋で、崇高な愛と犠牲が生まれるのか?イエスの復活は、人間の論理、まさか科学によって証明できるものだとは思いませんが、弟子たちは殉教を恐れず、むしろ主のために死ぬことを望んだという彼らの変化は、彼らが本当に主イエスの復活を体験したことなしでは説明がつかないものです。

彼らは復活したイエスに本当に出会ったのです。本当に復活の命を信じるようになったです。イエスの「生き返り」という不思議さを信じたのではなく、復活という「神の命」を信じたのです!イエスは神によって、神と共に生きておられることを確信したのです。かつてイエスが言われたように「わたしがいるところにあなたがたもいることになる」、「父の家には住む所がたくさんある」ことを信じられるようになり、自分たちが行くところはそこ!イエスがおられる神の国、神の家であることを悟ったのです。それが彼らの変化であり信仰。また彼らを通してこの世に証しされ、のべ伝えられた復活の信仰です。

彼らの前に現れてくださったイエスは言われました。「あなたがたに平和があるように」。「なぜわたしを見捨てたのか?」ではなく、「わたしを捨てた裁きと罰を受けよう」でもありません。「あなたがたに平和があるように」です。

これは、イエスと弟子たちが交わしていた言葉(アラム語)で挨拶の言葉だったと思います。ユダヤ人たちにとって「平和があるように」とは、神が共におられるという平和であり、神の臨在と比べられる安心で平和なことは他にないという思いが根底にある表現だそうです。

ご自分を見捨て、絶望し、隠れこもっている彼らに「再び」、「なお」、「神が共にいてくださるよ」とイエスは言われます。しかもこの宣言が、今日の福音書の中で三回繰り返し書かれています。そして「聖霊を受けなさい」と彼らに息をかけられたイエスをヨハネによる福音書は告げています。

皆さん、私たちは福音書というテキストから聞き取り、これによって神のみ旨を知るということで、どうしても文学的な分析や解釈はある程度必要なものですが、聖書の言葉を分析的に知識的に知るだけでなく、私たちの心が悟ることを求めてください。実は非常に古く、私たちとはかけ離れている聖書の記述は決して詳しい描写、説明とは言えないものだと私は思います。私たちからすると時代も、言語も、文化も遠く離れているものから翻訳されて私たちに読まれているこれらの文言を、私たちは表面的に優れた描写や説明とは思えない場合が多いはずだと思います。むしろ一行一行を淡々と、余分なものなく、伝え、翻訳しているのが聖書の言葉です。そこから、これは神様が私たちに伝えているものを読み取るには、それにふさわしい心と姿勢が必要だと思います。それ以前に、神様の導きが必要です。皆さん、この決して長くないテキストから、主イエスの復活の恵みが皆さん自身に読み取られることを願い求めてください。

主イエスは、御自身を見捨て、御自身から逃げ、御自身の死を悲しんでいるのか、それによって恐れているのか…そういう弟子たちに(イエスが御自分の弟子としてくださった人たちのところに)復活して現れてくださったのです。十字架の死の前に何度言われても信じなかった彼らに、御自身が「いる」ことを見せてくださったのです。何のために?御自分の栄光のために?世に残る神話のために?御自分の人、愛する弟子たちに「再び」、「なお」、「平和があるために」。怯えているあまり鍵をかけて外に出られない彼らに、神が共にいてくださることを信じさせるために。彼らが立ち直るために。それは初めから敵対者や攻撃者たちに対する勇気を奮い立たせるだけでもない。戦うためではない。まず御自分に対して弱かった彼ら、悪かった彼らを「赦すために」主イエスは彼らの前に、真ん中に来てくださったのです。

「あなたがたのために私は釘付けられたのではないか」。「わき腹を刺されたのではないか」。「血を流したのではないか」。それは彼らを責めるのではなく、彼らと人類の罪の赦しのためにそうしたのではないかと。彼らに釘跡とわき腹の傷を見せて、「わたしがあなたたちのイエスだ」と。「あなたのために死んだイエスだ」と。「あなたがたに平和があるように」。そしてかつて創造主である神が形づくられた人の体に命の息を吹きいれて生きる者としてくださったその同じ息を与え、「受けなさい」、「聖霊を受けなさい」と。これが信じず、恐れ怯えていた弟子たちへの復活の主イエスの言葉です。

だからイエスの復活を信じる人は、自分がイエスによって赦されてあることを信じる人です。むやみに、自己本位で自分を肯定して「赦された」と思い込むのが信仰なのではなく、イエスが十字架につけられ、刺し貫かれて、そのイエスが復活し、赦してくださったことを信じることが、復活のイエスを信じる人です。それが神の子の愛であることを知る人です。それに、自分がそのように赦され、愛されていることを知るゆえに、自分もイエスによって人を赦す人です。このように言われているからです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

これはもちろん「赦しなさい」という意味です。イエスを置き去りに見捨て、裏切り、イエスを知らないと言った弟子たちはこのように赦されて、自分たちは人を赦さない人になったのでしょうか。これは彼らに赦すか赦さないかという特別な権限だけが与えられた話なのでしょうか。イエスの愛を受け、復活を信じた彼らはもちろん、その後イエスのように人を赦す、神の赦しを伝える人になったのです。復活を信じ、聖霊を受けた人は赦す人です。彼らを通して後に復活を信じた世の人々も赦す人です。それ以前に赦された人です。

復活を信じる人、その人はこの世で絶望してもいいです。何度か挫折してもいいです。失敗してもいいです。私の人間的な考えでこんなことを言っているのではありません。イエスが弟子たちに対してしてくださったことを受けて信じるゆえにこう言えます。絶望していい。この世には苦しみがあるのです。しかし復活の主が再び立ち上げてくださるから。神がなお共におられるよと顔を上げてくださるから絶望していいです。 私はある意味、あまり復活を信じられない人は「信じられません」と神様に言ってもいいと思います。まさにトマスがそうだったではないでしょうか。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

それでも、主イエスは現れてトマスを信じさせてくださいました。「信じられない」という叫びも、それが神への求めであれば、それも聞き届けられる祈りだと思います。もちろん私たちの弱さも、罪深さも。それに応えてくださる、生きておられる主イエスがおられるからです。聖書が弟子たちを通して私たちに伝えていることはこのことです。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」弟子たちは、自分たちの心と、手と、目で触れて体験したイエス、命の言であるイエスをこのように証ししています。イエスの赦し、イエスの深い愛を聞いて、見て、手で触れて確信されたイエスの復活。まさに私たちを信じさせるために伝えられたこの福音、永遠の命を受けるために伝えられたこの福音を信じて悟るために、私たちも生きておられるイエスを求めるべきではありませんか。なお復活の道に精進する皆さんでありますように。

主は生きておられる

2024年3月31日(日)主の復活主日礼拝説教要旨 
イザヤ25:6〜9 詩118: 1〜2、14〜24 コリント一15:1〜11 マルコ16:1〜8  
マルコによる福音書16章:1〜8節
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
主の復活を賛美しつつ、主の復活を祝う今日の礼拝に招かれた皆さんの上に神様の祝福があることを祈ります。この教会は、この世界に建てられているキリストの教会と同様、イエス・キリストの復活を礼拝するために建てられた教会です。今日、この教会で共に礼拝している皆さん、皆さんの祈りが、それがどんな願いであれ神様に届けられ、叶えられる願いとなるように、心からおささげください。  何かの不安と悩みを抱えておられる方・・・その不安と悩みが祈りに変えて祈り続けてください。    大切なのは一度口にするだけでなく、ぼんやりとした思いで呟くだけでなく、本当の願いを心から祈り、しかも祈り続けることです。不安と悩みを抱えて祈ったことがある人の経験談として、真実な祈りは必ず何かの変化と気づきをもたらします。まず、皆さんの不安と悩みを祈りに変えてください。  体の不調、衰え、またを抱えておられる方・・・神様から生きる力が与えられると信じて願ってください。聖書に書かれている主イエスの働きの中でかなりの多くのものが、苦しむ人、病気を患う人をイエスが癒されたとの記事です。それらは聖書の中の物語であって、非科学的だと冷めた思いで片づけずに、病、痛み、弱さを抱えて生きる人々のところに主イエスは行って、彼らを憐れんだことを受け止めてください。それがイエスであることを信じてください。癒しと新しい力が与えられることを信じます。仮に、急な変化が見える奇跡はなかなか起きないにしても、痛みと弱さをもって生きる人と主イエスは共にいてくださる慰めと愛が感じられるでしょう。それは虚しいことではありません。  自分の進路、経済的な安定、家族のこと、子どもの将来、自分が属する社会や組織のこと、場合によっては自分の人間関係に関する悩み・・・何でも祈られます。祈ってください。主イエスは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と弟子たちに言われました(ヨハネ14:13)。もしも私たちの祈りが現世的過ぎるもので、利己的で、間違った願いなら、祈るうちに気付かされると思います。それも祈りによる変化であり、祈りの応えです。願ったことによって自分を囲む状況が変わる代わりに自分が変えられる…素晴らしい変化でないでしょうか。   詩編の中には美しい歌ばかり納められていますか?ある程度読んだ方々は分かります。文面上、神様に向かって愚痴のような、苦しみを与える敵への勝利を求めるなど、正直すぎる感情と願い少なくありません。「敵を滅ぼしてください」との文面も数か所です。おそらく、その状況は利己的で悪い思いではなく、神様を信じる人としてこの世を生きる中での苦しみからの生れた願い、助けを求める必死な求めだったと思いますが、要するに、初めから神様に祈って良いこと、悪いことが決まっているのではないと思います。上手な祈りと下手な祈りがあるのでもないです。もともと祈る人、祈ることができない人とが決まっているのでもなく、大概ただ祈らないだけです。  もう一度お勧めいたします。今日ここに来られている皆さんは、ここに来た動機はそれぞれであっても教会の礼拝に来られているのだから、そして教会は祈る場所であることを知って来られているのだから、ぜひご自分の願いを神様におささげください。口に出さない形でも、心の中でお祈りをささげてお帰りください。そしてここはキリスト教会であり、今私たちが行っているのはキリスト教の礼拝なので、「イエス・キリストのみ名によって」祈りをおささげください。これが、この場での礼拝と祈りにおいて唯一の条件と言えば条件かも知れません。キリスト教信仰による祈りは、神のみ心によってこの世に人の姿で生まれ、十字架に付けられて死んだ神の御子イエスを通して神様に届けられる祈りです。実はこれを言うために今日の話しの前半、祈りについて語っています。「イエス・キリストのみ名によって」、「イエスを通して」祈ることです。 キリスト教会の信条によれば、イエスは十字架で死んだのですが「三日目に復活し」、今や天の神と共に、その右におられる…これがキリスト教の信仰です。イエス・キリストは私たちの祈りの仲介する方であり、執り成す方。信じる人に聖霊を送って導きと助けを与える方であり、世の終わりに再び来られる方。信徒である方々にとっては、今日はなぜ分かり切っている内容ばかり語っているのだろうと思われるかもしれませんが、決して膨大でも複雑でもないこれらの内容がこのキリスト教会の信仰そのものであること、理解に苦しむ内容ではないと思います。ということは、イエスは生きておられる方です。生きておられる方でなければならないです。とりわけキリストを信じる人にとっては、イエス・キリストは生きておられる神の子、神と共におられる方である信仰がなければ、どんな祈りもどんな礼拝も成立しないものだと思います。それはそうでしょう。「イエス・キリストのみ名によって」という祈りと礼拝なのに、そのイエスは死んだ方で、今や存在しない方なら、イエスを通して行われ、ささげられる行為と思いに何か効力がありますか?意味がありますか?私たちの礼拝と祈りを受ける方、執り成す方は生きておられる方であり、私たちが礼拝する時、祈る時、私たちを導き、養うことを求める時、私たちはイエスが生きていることを信じているのです。 この世の歴史の中で、確かに十字架で死んだあのイエスが神と共に生きておられる神の子であることを確証させた出来事が「復活」です。だから「復活」は、キリスト教会の始まりであり、中心です。キリスト教会の礼拝は、歴史上の偉人としてのイエスを記念する記念会ではありません。イエスの語録と教えを勉強する勉強会でもありません。死んだ方を祭る祭りでもなければ、死んだ人がかつて残した道徳で自分を磨く時間でもありません。今話したものは部分的には礼拝の意義になり得るものかも知れませんが、キリスト教の礼拝の核心ではないという意味です。私たちの礼拝も、祈りも、生きておられるイエスを通して行われる生きた交流でなければならないもので、生きておられるイエスからの恵みを受ける時と場、それに与るのが私たちの教会の礼拝です。そしてこれらは、信じる人に本当に与えられます。やはりキリストは生きておられます。主イエスとの生きた交わりをますます求める皆さんになってください。それがイエスの復活を信じることです。 週の初めの日の朝早く、イエスに慕っていた女性たちはイエスが葬られた墓に行きました。イエスが十字架に付けられて死んだ日を一日目とし、三日目となる朝です。イエスは死ぬ前から弟子たちに「三日目に復活する」ことを繰り返し予告していたとされていますが、おそらくこの時点で女性たちの思いと認識の中に予告されていた「復活」はありません。この日、イエスの墓での出来事を受け、彼女たちの正気を失うほどの驚きと恐れがその証拠です。死の力は強力です。どんなに愛しても、どんなに心を込めても、「あの方はもう死んでいない」という認識が人を支配します。私たちはまだ死んでいなくても、私たちが遅かれ早かれ死ぬ者であることを、他の何のことよりも否定できないものとして自覚させます。

墓に来ていた女性たちもまだ死の支配下にいる状態です。かつて慕っていた人、かつて恩に与った人への愛と敬意の思いとして、遺体に香油を塗るという習慣を行うことが、墓を訪れた動機と理由でしょう。実はこの時代の墓は成人男性数名で動かせる大きな岩で墓の入り口を封じていたのだから、女性だけでは封じられている墓の入り口を開けられないはずなのに、ならばその中にある遺体に香油を濡れないはずなのに、それでも墓に来ていたのが不思議と言えば不思議です。それでも彼女たちが墓に来たのは、彼女たちにとって死んだ方でもそこにイエスがいるからでしょうか。

しかし「死んだままのイエスはそこにはいない」、それがこの日の彼女たちの体験です。だからと言ってすぐ信じた訳でもなく、ただ震え上がり、恐ろしくなりその場を逃げ去ったことが当初の彼女たちがした全てです。ただ、この出来事を通してこれらの使信は残されて、後に繋がったようです。聞かされ、伝えられてすぐには信じられなくても…。「あの方は死者の中にはおられない」。「復活なさった」。

当時、弱い集団であったはずの弟子たちの群れとしてはこんなことを起こせなかったはずの出来事。というか、イエスの死を前に裏切り、逃げ去り、イエスの死によって絶望し切っていたところ。別の福音書の記録によればイエスの敵対者たちが、「あの人は三日目に復活することを言っていたから、墓を守ろう。遺体が盗まれるのを防ごう」と兵を置いたところ。それでもイエスの遺体はその後もどこからでも見つからなかったこと。

この不思議な出来事は、ただミステリーとして終わるのではなく、信仰のあるところではその意味が明かになったこの世界と歴史です。「イエスは死者の中にはおられない」。「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」。

ガリラヤ…。イエスと弟子たちが出会ったところ。イエスの宣教が始まったところ。人間の認識として死んで終わったところから、再び始まりが…。しかもさらに大きな始まりが、ここから始まる。

この世の時間で2000年程の時が過ぎても、忘れられることなく、埋もれることなく、途絶えることなく、むしろ伝えられ、広まり、与えられたの命を虚しいものにさせない使信が今日の私たちにも届けられている。その始まりが、復活の命、永遠の命の初穂となられたイエス・キリストの復活。そのキリストは今日も生きておられ、私たちに働きかけます。皆さんが主イエスと生きた交流と繋がりをもつために、生きることを願うために十字架で死んで復活し、生きておられます。

神様。私たちにあなたの御子イエスの復活を与え、知らせてくださったことを感謝します。人間の思いでは及ばない出来事を通して、この世に起こしてくださいました。これは神様が起こしたことで、生きて働く神様の働きです。あなたとあなたの御子イエスにおいて死はすべての終わりではなく、神の与える命において、命は生きるためにあたえられるもので死ぬためのものではないことが示されました。あなたは死の支配を滅ぼしました。ゆえに、私たちがあなたと生きるために授かった命を用いることができますように。生きておられるイエスと共に、あなたの命に向かうことができますように、弱き罪人である私たちを導いてください。復活の命の初穂となられ、今も生きておられる主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

多くの命のために御子は死ぬ

2024年3月17日(日)四旬節第5主日礼拝説教要旨 
 エレミヤ31:31〜34  詩119:9〜16  ヘブライ5:5〜9  ヨハネ12:20〜33
ヨハネによる福音書12章:20〜33節
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

四旬節(受難節)第5主日を迎えました。キリスト教会で、主日を除いて40日間とされている四旬節だから、実際の日数は四十数日(今年の場合46日)の四旬節の内、今日が四旬節の33日目(私の計算によれば)。今年の四旬節もすっかり後半です。

こうして私たちが数える日にちは過ぎていきます。私たちが定められた期間とその意味を真面目に受け止めても、受け止めなくても過ぎていきますが、私たちの礼拝と直結する問題なので改めて四旬節の意味。知っているつもり、繰り返し言われたつもりの四旬節の意味とは…。

「イエス・キリストの受難を、その苦しみを覚えること」。

「その受難、苦しみは誰のためのものだったのか」、「私たちのため」、「私たちの(救いの)命のため」

これを噛みしめ、これを覚え、これを心に刻むことが四旬節の意味だと思います。(これはキリスト教信仰において四旬節のみならずいつも信仰の核心的な部分ではありますが、四旬節においてはなおさら)

ということは、私たちの救いはキリストのみ(私たちのために十字架と死を受け入れたキリストのみ)です。受難だから、受難の後に復活があるのだから、そこまで忍耐。「忍耐しよう」、「自分で自分を律しよう」という、ある意味道徳化された勧めよりも先に、私たちはどれほど努力して、どれほど忍耐しても私たちの力と努力ではとうてい至ることができない赦しと命のために、キリストはこの世で十字架の苦しみを担われたのだと、これを受け入れて信じるのみです。

キリストが私たちの罪に代って十字架の苦しみと呪いを担われたのだから良かったね…という安易な、そんな考えではなく、キリストは私たちの代わりに、誰も罪と死の呪いを担えないそれを受けて、担われた…。これのみに神の愛、これのみに私たちが神に繋がる道がある…それに立ち帰るのが四旬節の信仰的な意味でしょう。

この信仰的な意味に、私たちの人間的な知識と知恵、役に立ちません。(十字架の意味を理解する知識と知恵なら別ですが)

私たちの人間的な品性、無意味です。(キリストに従おうとする品性なら別ですが)

むしろ私たちは自分がもっている知恵や力に頼ろうとすればするほど、私たちは、キリストが私たちのために十字架で死なれたという福音からは遠ざかることでしょう。

実にイエス・キリストの十字架は何なのかと明確に打ち出している聖書の言葉のごとく、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが…」(コリント一1:18〜)そこに救いがあるのではなく、私たちのために十字架にかかられたイエス・キリストのみに救いはある。これは十字架を教会のシンボルとして掲げるキリスト教会の信仰であり、キリストを信じる者が繰り返し立ち返るべきところ、あり方です。

そのため(立ち返る)には?十字架を私たちの心に刻むためには?

私たちの思いを捨てなければならない。たとえ自分の考えと思いがどれほど正しい、譲れないものと 思っても、神の前では捨てなければならない。繰り返しになりますが、信じる人というのは、自分の力で救いを勝ち取るのではないのだから。キリストを信じることのみに救いの命を見つめる者だから。それ以外のものは捨てること。ある意味、これこそが信仰です。(誤解のないように、御幣の内容に「神の前で」捨てる、降ろすことと言っておきましょう)。

皆さん、礼拝の恵みが与えられるために、それが自分に入って来るために、自分の思いを降ろしましょう。一旦捨てましょう。これは私の話しを聞いて受け入れてくださいとのお願いではありません。皆さんの礼拝が神様への礼拝になるための勧めです。キリスト教信仰というものは、自分が何とかして生きる知恵と力を絞り出すことではなく、自分の外から与えられる恵みを受けることです。つまりキリストから与えられる恵みを受け入れることです。受け入れるためには、与えられるものが入って来る余地がないといけません。悔い改めることは、罪を告白すること、生きる方向をもう一度神に向け直すことですが、つまりそれは自分の中を神の前でからっぽにすることとも言えるのです。

「キリストは私たちのために命を捨てられた」。そのことは信じて受け入れようとしながら、自分はキリストの前に自分を捨てきれずいるなら、それは何だかつじつまが合わないような話ではないでしょうか。

というのも、今日の福音書にまた有名な言葉が記されています。「一粒の麦は一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」結構有名な言葉であり、印象的な言葉です。これは間違いなく、イエスの死とその意味に対する隠喩です。イエスの死によって、多くの命(つまりイエスを信じて従う人々の命)が神の与える救いの命へと繋がる…そのことを「一粒の麦の種から、多くの実を結ぶ」という表現をもって示しています。ですが、実はそのことだけが語られているのではありません。続きにこうも語られています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

この言葉に関しては、こう翻訳されていることへの若干の思い巡らしと理解が必要だと思います。「自分を愛する」ことは大事です。この部分は翻訳されている言葉を表面的にだけ理解したら躓きます。(だからといって上手く説明する自身もないですが)どちらかと言えば良くない意味の自己愛を指しているのではないでしょうか。今日、先からの話題に繋げて言うなら、まさに神の前で自分を捨てきれずに、委ねきれずにいること。種が一度地に落ちなければ実がならないのに、落ちることを恐れて、惜しんで、そのままでいること。それが、この部分で「自分の命を愛するあまり、それを失う」ことではないかと思います。逆に、ここで「自分を憎む」と翻訳していることは、種を一度落とすことができること、イエスに従って委ね、自分を一度捨てることが出来ることを指すのだと、私は思います。

種が地に落ちること。それは私たちの人間的な、生物学的には「死ぬ」ことではないですが、ここで「死ぬ」という隠喩になっています。(これくらいの文学的な隠喩は大丈夫でしょう)だからと言って、これはちょっと間違った表現の隠喩でもありません。なぜなら、これはまさにイエスの死をたとえているからです。

一粒の麦が地に落ちる=イエスが死ぬ。地に落ちた種が殻を破り、変化する。それは命の変化です。実を結ぶに至る変化です。

このように、キリストの死は復活に変わります。これも命の変化です。この命に変化するために、キ リストは死ななければならなかった。これが十字架であり、これが神のみ旨。イエスはこの神のみ旨に従いました。その死を示しているのが地に落ちていく「一粒の麦の種」です。これは自然界において種の領域にあった命が次の命の姿に変わることにたとえた、肉の死から永遠の命へと変わる、命の始まりの宣言なのです。

今日の第二の日課のヘブライ人への手紙も、非常にユダヤ人的な言い回しで難しく聞こえますが、示していることは同じです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」イエスの十字架の死が、その死に進まれたイエスの願いが聞き入れられたとは、御子イエスの死という贖いによって、人々の罪と死の鎖は取り除かれたことです。そのためにイエスは神のみ旨に従順であった。「そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」ましたことです。

主イエスが永遠の救いの源である人とは、主イエスに従う人です。主イエスの道に辿って、それに従って、その命の変化に共に与る人です。主イエスも今日の福音書で直接告げられています。「わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

イエスに従うことは?イエスと共に死ぬことです。必要があれば肉の命を惜しまないことです。ここまでしたのはイエスの弟子・使徒たちでありますが、私たちもこのイエスに従って生きるように招かれた者です。生きるための招きです。いつか自然的に、医学的に死ぬのは皆そうですが、神の前でイエスと共に死ぬ…。私たちが洗礼を受ける時に、罪人である自分が死んで、生きるのは私たちの内におられるキリストと共に生きることだと良く言われるように、キリストの十字架を前にしてそれに従う恵み。それによって復活の命を、永遠の命を望める恵みが皆さんに与えられますように。それが皆さんを生かし、この不思議な神の業が与えるいやしに与る皆さんとなることを祈ります。これこそ古くから預言されていたことの実現です。

(今日の旧約日課)「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と…。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

神は、神が選んだ民に与えられた戒めに不従順であった人々に対して、もはや人間の文字から読み取って従う律法ではなく、胸の中に、心の中に刻まれる新しい律法、新しい道を与えるとエレミヤを通して預言しました。

胸の中に授けられる新しい律法とは、心の中に記される新しい律法とは、何でしょう。この預言が実現したのは御子イエスが私たちのために死なれた十字架です。神はこの世の人にそれを与えられ、信じる人の胸に刻むように導かれたのです。これが私たちの外側から、つまり神から与えられる愛であり、恵み、命に至る唯一の道。私たちに与えられたのは、私たちを生かすために与えられたイエスの十字架、死。これに基づいてイエスが「わたしの体、わたしの血」とされたパンとぶどう酒。そしてイエスが地上から天に上げられる代わりに与えられた聖霊です。それを与えられ、今日も聖餐にあずかり、聖霊の助けを求める皆さん、イエスに従うことを恐れず、委ねましょう。惜しまず、差し出しましょう。それ は、自分を委ねきれずに愛することによって返って失う道ではなく、与えることによって与えられる命の道。そこにもう一度立ち返る今日です。

自分の十字架を背負って従いなさい

2024年2月25日(日)主の洗礼・顕現後第1主日礼拝説教要旨 
創世記17:1〜7,15〜16 詩22:24〜32 ローマ4:13〜25 マルコ8:31〜38
マルコによる福音書8章:31〜38節
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 イエス・キリストの受難を覚える四旬節、その2週目を迎えた今日の福音書の中でイエスは言われます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。イエスは弟子たちにこのように「教え始められた」、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」との記録です。

 これを聞いたペトロが、イエスをわきへ連れて行って、いさめ始めました。おそらく「そんなことがあってはなりません」だったでしょうか。それでイエスはペトロに言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 強烈な言葉がペトロに言い渡されました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という内容は何となく諭しの言葉として受け止められる範囲だとしても、「サタン」とまで呼ぶとは…

 イエスご自身に人生をかけて、自分の職である「網を捨てて」従ったペトロ。弟子たちの中でも頭弟子、もっとも積極的で熱心な弟子と言われるペトロに対して悪魔の名で呼びつけるとは…もちろんそれがペトロの中に入り込んだ悪魔、その唆しに対する言い方だとしても、人間的に考えて厳しい言葉のように聞こえます。

 しかもマルコによる福音書の展開は早く、急なもので、この個所のすぐ前の段落でペトロはイエスに対して「あなたはメシアです」と、あの有名な信仰告白をした途端、ペトロはこう言われたのです。

 私はこの部分を黙想してみて、このペトロの姿勢と行為から、信仰生活をしているつもりの「私」の姿、または「私たち」の姿を見ているような気がします。人間的な考えによれば、ペトロの行動はそこまで理解できないものではないと思います。だって自分が「メシア、救い主」だと信じて従う方が、「これからわたしは…排斥されて殺される」ことを言い始めたのです。おそらくこの時点で「三日の後に復活する」ことは耳に入らないと思います。復活というものがどんなことなのか思い付かないこともあると思いますが、自分の主であり師である方がこれから「死ぬ」ということを宣言していることがその時のペトロにとってショックすぎることだと思うからです。

 それを聞いたペトロがイエスをわきへ連れて行っていさめ始める…。私にとって「いさめる」という言葉は意味がぴんと来ない言葉なので意味を確認してみると「主に目上の人に対して、その過ちや悪い点を指摘し、改めるように忠告する」という意味でした。自分が従っている主に対する指摘と忠告は場合によっては生意気なものでもありますが、イエスが「排斥される」、「死ぬ」ということを言い始めた場面でペトロがこのように反応したことは、人間的には「イエスを思っている」、「忠実である」ともとれるのではないかと思います。ある意味、この時点でもっともイエスに近いのは自分、ペトロはイエスの手と足のような存在となっているつもりのようにも見られます。

 しかしそれはペトロの思いであってイエスの思いではなかったこと、この福音書のメッセージです。ペトロがどれだけイエスを思っていたのか、どれだけ熱心だったのか、しかもあの信仰告白をしたペトロ…という同情のメッセージは一切なく、このペトロの思いは人間の思いであって、イエスの思いではなかったことをマルコ福音書ははっきりと記しているのです。

 私たちはこの時点のペトロのように、「これから自分の主が死ぬ」というショックなことを言われて戸惑う私たちではなく、福音書の結論的なメッセージを知っている私たちであるため、このイエスの言葉の意味が分からないことにはならないはずです。

 主イエスは、神の子として、罪によって神と断絶され、死ぬべき人間のためにこの世に人として来られた方です。そしてその救いをもたらす方法として十字架に付けられて死ぬ、神ご自身が人の罪の呪いと罰を代わりに受けて「命」の代価をつぐない、贖う方法をとられた…その方法をとられたことが私たちにはすでに分かるからです。

まさに主イエスはそのためにこの世に来られたのです。そこに私たちの赦しが、人類への神の赦しがあります。そこに神が与える「命」がある、これがキリスト教会の信仰でありメッセージです。しかしそのことを聞き始めたペトロはそのときの自分の思いでそれを否定します。人間的に理解できる思いではありますが、もしも(そんなことはあり得ないですが)このペトロのいさめと説得によってイエスが十字架を背負わず、十字架で死なず、別の道に進まれたとしたら、私たちの教会の救いのシンボルである十字架はこの世にないはずです。十字架による赦しも、救いも、命もないはずです。

もしも、初期の弟子たち、当時の人々の思い通り、イエスが何か政治的な革命や運動を起こした人だったならば?その革命がたとえ成功して、ローマ帝国から独立して自分たちの民族の主権を取り戻したとしたら、それでイエスに弟子たちは王の側近なり、官僚なりなったとすれば?あり得ない仮定でありますが、仮にイエスの選択がそうであったとするなら、イスラエル民族の歴史と世界の歴史が変わった、それで終わりです。聖書、福音書のストーリーもなく、十字架もなく、救い主も、救いもない。キリスト教会もその信仰も、信仰による希望もなかったことです。

ここでのペトロは「イエスはメシア」と本気で思っていたかも知れませんが、少なくともこの時点ではその「メシア」(救い主)を自分たちのためのメシア、イスラエルのためのメシア、現世的な意味でのメシアと思っていたのが見とれます。もちろんこういうペトロはイエスの十字架の苦しみと死を見届け、躓きつつも、その後の復活を体験して信じ、真の救いと命に従い、伝えていく人へと変わっていくのが福音書のストーリーでもありますが、この時点のペトロはこうであったというのが福音書の記録です。そしてこの記録さえも、その後のペトロの変化も私たちのためのものです。

さて皆さん、このストーリーを知り、このストーリーをまとめて読むことができ、この救いのストーリーが知らされている私たちとして、私たちが望むことは何でしょう。私たちは何に向かって礼拝し、何を祈ることでしょう。この世の富と成功?自分と自分の身内の安楽?この世の問題の解決?自己実現?利益?これら、とても良いもの、欲しがるものだけど手に入れ難いもの…これらのどんな良きものも、私たちの命より先行してはいけないことが十字架による信仰、キリストの血によって贖われたキリスト教会の信仰なのではないでしょうか。欲しがっては駄目、望んでは駄目、助けを求めては駄目という意味ではなく、ただこれらを思うことがイエスの十字架の贖いに取って代わり、これらが私たちの信仰の目的すべてになっては、主イエスが十字架で血を流し、御自身を与えられた意味はなくなります。

主イエスははっきりと私たちに次の言葉を与えられています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」命に代れるものはないです。富を得ても、成功を手にしても、この世の安楽と幸せを得たとしても、それが罪と死に取って代わることはないです。憎い誰かに勝ったからと言って、人々の間で一時優るように生きたからといって、自分の利己的な思いが叶ったからといって、それらが永遠に続くことはないです。というか、私たちはそれらを強く望めば望むほど、いつかそれを望んだ報い受ける可能性が高いです。私たちに必要で、良い求めのように見えて、それらが誘惑である可能性もあります。命の道から外れるような働きかけになる可能性もあります。先週の日課でもあった、イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けられたがそれを退けたことが意味を私たちはもっと深く思い巡らさなければならないと思います。 イエスがこの世の誘惑に惑わされることなく、それを退けた結果、十字架の道があるのです。その十字架の苦しみの道があるゆえに、私たちには赦しと救い、神による永遠の命が与えられます。

私たちの誰もが、この世のどんな偉人も、死からの救いを造り出すことはできません。神によってのみ与えられるものです。神によって遣わされたイエスによってのみ与えられるもので、イエスはそのために来られてすべてを捨てて十字架を背負われたのに、その十字架に向けて、この世のもの、いつかなくなるもの、さらに私たちの心と命を惑わし、奪うものを求めるとはどういうことか…。「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことは、あのときのペトロだけでなく、私たちの信仰の歩みにも当てはまる言葉ではないか…。

キリスト教会とその信仰に招かれている皆さん、十字架はあなたを清めます。イエスの十字架を思い、それに従おうとするとき、あなたはイエスの十字架によって清められます。私たちは弱く、完全に罪から離れられない存在でもありますが、イエスの十字架に従おうとするとき、私たちは邪悪な思いから、虚しい試みと影響から離れられて命の道に向かいます。繰り返し躓いても、また罪を犯しても、しばらく忘れてしまっても、再びイエスの十字架を思い、従い直すとき、私たちは清められます。それがイエスの十字架が現にこの世の歩みを続ける私たちに与えるものです。私たちは何よりも私たちの救いの命のために主イエスの十字架を見るのです。私たちの魂がまっすぐにその命に向かう時、私たちは命を与えられる者として生きるゆえに、私たちがこの世で自分の十字架をも背負える力が、苦しみ悲しみを乗り越える力が与えられることと信じます。

私たちは自分一人で自分の十字架と苦しみを担っているのではなく、私たちのために先に十字架を担われたイエスに従って進むのです。命に向かって、私たちは前に進まなければなりません。それがイエスの十字架を掲げて生きる信仰の歩みです。祈ります。


神様。誰が神様の選ばれた者を訴えましょう。誰が私たちを罪に定めることができましょう。主イエスが私たちのために十字架にかかり、今も神の右におられ、私たちのために執り成してくださる以上、誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。この世のどんなものをも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないと信じる信仰に立ち、私たちが歩み進む道、神様が与える命と義しさに向かう道となるように、私たちを改め、強めてください。私たちが神様を思い、神様が与える救いの命を仰いで生きることができるようにお守りください。十字架の主イエス・キリストのみ名によって祈ります。


聖霊は告げる

2024年1月7日(日)主の洗礼・顕現後第1主日礼拝説教要旨 
 創世記1章:1〜5節(旧1P), 使徒言行録19章:1〜7節(新251P)、マルコによる福音書1章:4〜11節(新61P)
マルコによる福音書1章:4〜11節
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
◆イエス、洗礼を受ける/そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 まず2024年の初日から発生した強い地震、それに続く津波、火災、事故によって家族と大切な人を失った方々に哀悼の意を表すと共に、今、この寒い季節に避難生活をされている方々のために祈る気持ちをもって、私たちは礼拝したいと思います。
 こうして私たちは、再びこの世を生きる中で悲しみと困難が伴うことをまた知りました。私たちは知っているはずです。今回の災難で直接な被害を受けていない私たちであったとしても、今回私たちの家族は無事で命と生活が守られている状態であったとしても、私たちもこの世の災難と悲しみからまったく決して自由な者ではないことを。あの地震や津波、または事故が私たちの生きる場を襲ったら私たちも何かを失い、苦しまざるを得ない私たちであることを。だから私たちは災難に遭った人々を憐れむ心をもち、出来るならこれから災難と悲しみの中にいる人々を助けたいと思うことです。

  この世を生きる私たちに苦難とは何でしょう。悲しみとは何でしょう。それは私たちがこの世を生きる限り「あるもの」です。ただ「あるもの」です。たとえ私たちの行いが正しいから、何か良いことをしたから、それから逃れることができるものではないです。私たちが神様を信じるからそれらに遭わないものでもないです。もしもこう考える私たちがいるなら、それはとても傲慢な思いであり、かなり間違った信仰だと思います。
 「神は守ってくださる」、「恐れるな」…聖書が、聖書を読む人々にもっとも伝えているメッセージです。ただし「神は私たちを守る方」だから、「恐れない」で生きることを命じているからと言って、私たちにこの世にある苦難や試練、悲しみ、死がないことだと信じるものなら、その信仰は必ず躓くでしょう。なぜなら苦難も、試練も、悲しみも、死も、ただあるものだからです。
これらについて何か人間的な理由を付けて評価することは虚しいことです。というか、人となられたキリストも死なれました。死ぬために人となられました。敢えて十字架の苦しみを担うためにこの世に来られたのです。その苦しみと死を受けて乗り越え、それに勝利するために人となられたのです。死への勝利は死なないことではなく、死の後に復活が、死を超える「命」があることです。キリスト者はそれを信じる者です。
だからパウロもローマの信徒への手紙(8章)でこう言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。患難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…」「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 災難に遭ったから神に守られなかったことでしょうか?何かを失ったから神に祝福されなかったことでしょうか?試練と躓きと苦しみ、悲しみがあるから、神は共にいてくれなかったことでしょうか?それなら、キリストを信じて、キリストの愛にすべてを委ねて殉教するまでキリストに従った人たちは勘違いしたことでしょうか?ないものをあるものと信じたことでしょうか?そもそも十字架で死んだキリストはキリストじゃないことでしょうか?
 そうではない。苦しみと悲しみがあってもそれらによって脅かされない、損なわれないもの。死んでも無くならないものを見つめ、信じたのです。「無」ではなく「有」です。
今日の第一の御言葉、聖書の最初のページの言葉です。「光あれ」。「こうして光があった」。「神はそれを良しとされた」。この霊的な言葉は、これを表面的に目撃して記述していない限り、目撃の記録ではなく、信仰告白です。神の創造の前に誰かがそれを見て語っているのではなく、この世の中で「神の創造」を感じて信じた記述です。時系列的な記録ではなく、神の創造と働き、その業が「ある」ことを体験して確信した「真実」です。混沌の中でも、闇の中でも、神はそこにいて「光」を与えられる方であることを感じ、信じ、それを見つめ、それがあるこの世界、神が創造し、神が共にいる世界であることの告白です。
 混沌も、闇も永遠ではない。全てではない。そこに「光」は来る。光がある限り、混沌と闇はもはや混沌と闇でなくなります。混沌のような困難、悲しみ…絶対的な闇のような死…それに打ち勝つ神の業、「光」があることを信じる…。聖書が語る歴史、救いへの歴史はまさにこの記述に集約されます。混沌と闇が最初からなかったものなのではない。この世にあって、この世を覆っていたものだけれど、そこに「光」が与えられた。国を失う中でも、命を失う中でも、現世的には全てが終わったかのような時でも、初めにこの世界を造られた神はおられ、神が良しとされた世界と命が本来の姿であることを信じた歴史の続きに、キリストが来られたのです。神の存在とその働きを信じる人に、混沌と闇は結末なのではなく、神の業が現われる前の状態なのです。
 だから「神は私たちを守られる方」、「私たちと共にいてくださる方」、「だから恐れない」。これらの真実に私たちは「アーメン」と答えられるのです。災難を前にしても、苦しみと悲しみの只中でも、死を見つめながらも、命の創造主、神は「救いの光」を与えられる。キリストを与えてくださる。本来「良しとされた」命を再び与えてくださる。これを信じて、キリストの現われと復活を見るに至った!これが、聖書が伝える救いの歴史であります。
 ユージン・ピーターソンというアメリカの牧師のとても印象的な言葉があります。「大海のすべての水も小さい船一つを沈没させることはできない。その船の中に水が入るまでは。同じように、私たちがこの世で受けるどんなことも私たちを動揺させることはできない。それが私たちの中に浸透しない限り。」
 本当の災害とは目に見える災害だけではなく、私たちの心に、魂に、命に入り込む混沌、恐れ、絶望…これらのものが私たちの中に入るとき、私たちが死と闇に支配されることです。しかし神が共におられ、キリストとの絆があることを信じる者に、死も死ではなく、闇も闇ではない。「神は私たちを守る方」、「命を与える方」を本当に信じる者とさせてくださるのです。私たちの命と魂は守られる、光に当てられるのです。イエス・キリストはそのために来られ、神のお告げの通り、人となって私たちに与えられました。

  今日は、イエスがあのときヨルダン川で洗礼を受けられたことを記念する主日でした。マタイやルカのようにイエスが人として生まれた記録を語らないマルコにとって、イエスがヨハネの所に来て洗礼を受けた場面がイエスの現われの始まりの記録です。この場面、イエスがヨハネに従う者に見える場面ですが、福音書が伝えるイエスの洗礼は、こうしてイエスがこの世界に来られたこと。むしろヨハネが伝えた悔い改めの教えと洗礼を御自身もそれを受けることによって正しいものとしてくださったこと、神に従う者の模範を示されたこと。こうしてヨハネが言う通り、彼より「優れた方が彼の後に来られ」て、本当にこの世界に「現れた」ことを伝えています。
 こうしてこの世界へ、私たちのために来られたイエスが水から上がると神の霊が降って、神の言葉が臨みました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエスが神の子であると伝えられるのはマルコによる福音書の中で3回。今日のイエスの洗礼の場面での天からの声。イエスの姿が山の中で変わって真っ白に輝き、モーセとエリヤが見えたあのときにもう一回。そして最後は十字架で死なれる場面で百人隊長の言葉を通して「本当に、この人は神の子だった」。この3回、イエスを神の子であることを表しています。つまりマルコはイエスの現われから死に至るまでの生涯を「神に愛される子」として伝え、その方が十字架で死んで復活し、弟子たちを派遣し、この世界に福音を広められた方としてイエスを伝えています。
 ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼、この世に来られる救い主を迎えるための準備。そして「その後に来られる方は聖霊によって洗礼を授ける」ことは、まさにイエスを信じる者がイエスによって神から与えられるお告げと力を受けることです。どんなときも「神に愛される子」として「神に良しとされた」人として信じて生きること、これが神の霊によって洗礼を受けた人の姿です。マルコによる福音書はその最後の章で、信じて洗礼を受ける者は救われ、次のようなしるしが伴うと告げます。「イエスの名によって悪霊を追い出し」、「新しい言葉を語る」、「手で蛇をつかみ」、「毒を飲んでも決して害を受けず」、「病人に手を置けば治る」。
 私は思います。これは「しるし」でありながら、イエスを信じて従う者へのイエスの約束です。この世のどんな害も、福音を信じる者には害ではない。むしろ悪と闇に勝ち、新しいことを伝え、人を癒す。それが聖霊の洗礼を受けた、信じる人、神に愛され、救われた人の生きる姿であります。

 神様、私たちは再びこの世の災害と困難、それによる苦しみと悲しみを知りました。しかしその中に共にある神様の憐みと御業、世の小さき一人一人と共におられるイエス・キリストを信じます。それゆえに、闇の中でも光を見つめ、世の困難の中でも神様を仰ぎ見る信仰を私たちに与えてください。それによって神様に愛され、良しとされた人として、この世の害ではなく神の霊によって生きる者へと変えてください。そして悲しみ、病む人々を癒し、慰め、この世に神の福音を言い伝える者とさせてください。この世に来てくださり、神の霊による洗礼をもたらした主イエス・キリストのみ名によって祈ります。



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