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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
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説教(2016年,2015年)



説教(2016年)

世界に光がやってくる

2016年11月27日(日)待降節第一主日礼拝要旨  マタイによる福音書21:1〜11
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
教会の暦は、新しい年を迎えました。今日から私たちは四週間の「待降節(アドベント)」という季節を過ごすことになり、待降節はクリスマスを待つ季節ですが、この季節に私たちは、イエス様の到来(アドベントとは本来「待つ」ではなく、「到来」「やってくる」という意味です)を待つ準備をするのです。

待降節の典礼色は「紫」です。紫は王の色。わたしたちはこのアドベント、イエス様を王としてお迎えする準備をします。王というとわたしたちには支配者、権力者…あまりいいイメージはありません。しかし本来、王とは決して相手を力で押さえつける存在ではなく、自分が持っている民を「支え、配慮する」役割を持つものです。そしてそのことを表すかのように、今日の福音書の日課の中でイエス様は、いかめしい軍馬ではなく、決して見栄えは良くないけれども平和の象徴である「ろば」に乗って、エルサレムという都に入られました。

それはまさに「王の到来」「エルサレムの本当の主人の到来」を意味しました。聖書の中でエルサレムは「神様の都」とされています。ですから、そこに神の子イエス様が入っていくということは、その都の本当の主人、その都の本当の王様である方が来られたということなのです。イスラエルの人々は、そのときを600年近く待っていました。そして、イエス様が旧約聖書に預言されていた通りにエルサレムに入られたので、人々は、揺れ動きました(10節、新共同訳は「騒いだ」)。しかしそれは歓迎の意味の大騒ぎであると同時に、イエス様が来られることに対する「動揺」でもありました。救い主が王として来られることを待っていながら、しかし神の都の人々は、本当の主人の到来に「動揺」するのです。エルサレムにはイエス様が来ることを喜ばなかった人もいました。それは、イエス様の誕生の時に、ヘロデ王とエルサレムの人がその知らせを聞いて不安に思った(マタイ2:3)のと同じです。それは私たちの心にイエス様が入ってこられるときに起こることでもあると思います。このエルサレムはわたしたちです。実はわたしたちのこの世界がエルサレムです。わたしたち自身がエルサレムです。>

わたしたちの本当の主人は神様です。しかしわたしたちは、好きなように生きることを望みます。イエス様のために人を愛するより、自分を守るために人を傷つける方を選びます。イエス様はこの後、この都から吐き出されるようにして都の郊外で十字架につけられます。神の都は、自分たちの主人を受け入れなかった。そのようにして私たちも、エルサレムのように、自分の中からイエス様を追い出して十字架につけている。アドベントの紫色は、その私たちの罪の色でもあります。

しかしそれを知ることが、実はわたしたちにとって、とても大切なアドベントの準備なのです。そのときにこそ、私たちは、この世界にイエス様が来てくださった本当の意味を知るからです。イエス様は、この世界が良い世界だったから来られたのではなく、むしろ私たちの世界が壊れているからこそ来てくださったのです。私たちは、クリスマスツリーやプレゼントの準備をすると同時に、心の中にイエス様をお迎えする準備をします。そのときに私たちは時々、自分の弱さやどうしようもなさに気づくかもしれません。しかし、そんな私たちだからこそ、神様はイエス様を送ってくださったのです。それほどまでに私たちを愛して下さるイエス様が、この世に来られました。私たちはそのイエス様を、私たちの中にお迎えする準備を始めたいと思います。

終末なんかこわくない!

2016年11月20日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝要旨 ルカによる福音書21:5〜19
ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
教会の暦では、今日が一年の終わりにあたります。今週で暦がひとめぐりし、来週からは教会の新しい一年、イエス様のお生まれを待つ待降節(アドベント)が始まる。いわば教会にとっての大晦日であるこの日曜日には、毎年「終わり」(いつか訪れるとされる世の終わり、あるいは個人の終わり)に私たちの心を向ける言葉が読まれることになっています。

「世の終わり」という想像を絶する大きな出来事だけではなく、わたしたちひとりひとりにとっての終末、すなわち自分の命の終わりと向かい合うことは、私たちにとって恐怖や不安を伴うことです。ましてや「戦争、暴動、地震」…わたしたちはまさに今年、その混乱を経験しましたし、その中で根も葉もないうわさが流され、不安が増幅された面もあります。また、多くの宗教が(歴史の流れを見ると、キリスト教ですら!)その終末の不安に付け込んできました。 今日の個所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱について語られた箇所です。そして「戦争、暴動、地震、飢饉や疫病、天変地異」…わたしたちの生きるこの世界が混乱の中に投げ込まれることを、イエス様は語られます。そしてこれは実際に、当時の人々がまさに経験していたことでもありました。ですから、今日のイエス様の言葉は、決して「これからこんなことが起こるぞ」と怖がらせようとして言われた言葉ではありません。むしろイエス様のメッセージの中心は「惑わされてはならない」「恐れるな」ということにあります。

もともと、今日の聖書の個所は、当時のエルサレム神殿に詣でて、その壮麗さ・美しさに目を奪われている弟子たちに向かって語られた言葉です。当時の人々にとって、エルサレム神殿は、ただ美しいだけではなく、信仰のよりどころでもありました。美しいものに目をとめることは、悪いことではありません。しかし、美しいもの、立派なものばかりを自分にとってよりどころとするのは危険です。(そして実際にこの後、紀元70年にエルサレムは陥落し、神殿は壁の一部を除いて完全に失われます)。

しかし、イエス様はただ弟子たちを脅すためにこの言葉を語られたわけではありませこんらんの中にある弟子たちに対して語られている、励ましと救いの約束なのです。

「こういうことがまず起こるに決まっている…(中略)…しかし、あなたがたの髪の毛一本も、決してなくならない」。これは、どのような状況下にあったとしても、神様は私たちのことをを決してお忘れになることはない、ということです。わたしたちは自分の髪の毛の数を知りません。しかしわたしたちが自分では知らないことまで、神様は知っていてくださる。それほどまでわたしたちのことを気にかけてくださる。だから、たとえ明日世界が終わるとしても、わたしたちのいのちが無駄になるはずがないのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

教会の暦はひとめぐりし、来週からイエス様のお生まれを待ち望む、待降節に入ります。冬のさなかで確かに進む、神の恵みがある。そのことに信頼して、イエス様をお迎えする準備をしたいのです。

恵みを下さい、この私にも

2016年10月16日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝礼拝要旨  ルカによる福音書18:1〜8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(ルカ18:1)とあるとおり、今日の聖書は祈りについてイエス様が私たちに教えてくださっているところです。しかし、こんなふうに言われてしまうと、かえって苦しく感じる場合もあるかもしれません。「自分はこんなに祈っているのに、祈りが聞かれない。ということは、自分の祈りが足りないから駄目だと、イエス様は言われているのだろうか」

そうではないと思います。イエス様があえてここで「気を落とさず、絶えず祈らなければならない」と言われているのは、わたしたちの直面する現実において「気を落とさずに祈る」ということがいかに大変なことであるかを示していると思います。本当に神様は祈りを聞いてくださっているのか。その気配もないじゃないか。神様はわたしのことなんでどうでもいいんだ。わたしたちは人間である以上迷うし、疲れるのです。それは当たり前のことなのです。

イエス様が語られたたとえ話の中には「やもめ」(夫を失って一人になった女性)が出てきました。当時の社会は男性中心の社会でしたから、女性が一人で生活をするのはかなり厳しいことです。ですから、ですから聖書ではこの「やもめ」を、みなしごやよそ者と並んで、社会で保護されなければならない対象として教えています(申命記10:18等)。これもまたわざわざ聖書の中にしるさないといけないくらい、当時の社会において彼女の立場が弱かったか、そして裁判等において、彼女のような立場の女性がいかにないがしろにされていたかが分かります。

イエス様が「神様への祈り」のたとえ話として今日、このやもめと不正な裁判官を例に挙げていることをわたしたちは不思議に思います。この裁判官、彼女のために、というのではない。ボクシング、彼女に痛い目にあわされたくないからと、非常に利己的な、自己保身的な理由から仕方なく彼女のために裁判を行うのです。しかし、これは裁判官ではなく、やもめの態度に注目すべき物語です。裁判官がふと「あいつの依頼を断るとやっかいなことになりそうだ」と考えます。「ひどい目にあわされるかもしれない」。それより裁判をしてやった方がマシなようだ、とこの「人を人とも思わない裁判官」に思わされるほど、彼女の訴えは強かったのです。

この裁判官は不誠実な人間です。もしかするとこの裁判官こそ私たちの中にある不実さを表しているのかもしれません。しかし、わたしたちだって、「ひどい目にあわされる」ということになれば相手の要求を聞く。私たちのような不実な人間だってそうなのですから、「まして」神様が聞いて下さらないはずがない。自分に資格がないなんて思わなくてもよい、自分がどんなに弱く、小さい存在に見えても、しかしそれでも神様に求めてもいいのだとイエス様は教えてくださるのです。

 今日の旧約の日課で出てきた、川岸で神と格闘して祝福を勝ち取ったヤコブもそうです。彼はここまで決して、祝福を受けるのにふさわしい人生を歩んできてはいませんでした。「祝福をくださるまで離しません。」ヤコブにはそんなことを言う資格はないのです。しかしそれでもヤコブは神にしがみつきます。主よ、祝福をください。こんな私ですが、祝福をください。

 自分がつまらなく思えるときがあります。信じて祈ることをしばしば忘れる、弱くてつまらない自分です。しかし聖書は小さき者こそ主から祝福される、ということを教えています。自分が小さく、無資格だと思えるときにこそ、私たちはその恵みから、一番近くにいるのかもしれません。

癒しの主が、あなたと共に

2016年10月9日(日)聖霊降臨後第21主日礼拝要旨 ルカによる福音書17:11〜17
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
聖書の中で「重い皮膚病」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ツァーラアト」と言われる、ある種の特徴を持った皮膚病のことです。昔はこれがいわゆるハンセン病と同一視されてきた歴史もありましたが、現在ではこの地域のツァーラアトはハンセン病とは異なる症状を持つ皮膚病であるらしいことがわかっています。

ツァーラアトにその人がかかっているかどうかを判断するのは、神殿の祭司の仕事でした。祭司はその人の病がツァーラアトであるかどうかを判断し、そこでツァーラアトであると言い渡された人は、病が癒えて、再び祭司に「あなたは清い」と宣言されるまでは、その人は「汚れ」ているのであり、「独りで宿営の外に住まねばならな」(レビ記13章46節)かったとされています。<レビ記13章、14章>。今日の日課の中でイエス様がこの10人に、「行って、祭司に体を見せなさい」と言われたのは、彼らが社会復帰するために、「あなたは清い」という祭司の宣言を得ることが必要だったからです。

しかし、今日のルカ書の日課において、イエス様は彼らに直接奇跡を行われたわけではありません。ただ、「主よ、憐れんでください」と必死で叫ぶ(イエスの評判が彼らの隔離されていた場所にまで届いていたのでしょう)彼らを「見て」、行って、祭司に体を見せなさい、と言われただけです。彼らは走り出した時点ではまだ治っていない。しかし、「あの方がそうおっしゃるなら」と走り出す…それは確かに彼らがイエス様の言葉を信頼したしるしでもあります。半信半疑にせよ動き出すところに、信仰への出発点があります。

しかしここから、道が分かれます。10人は途中で、すでに自分の体が癒されていることに気づく。そして10人のうち9人はそのまま祭司のところへと向かっていったのですが、その中の一人、しかもサマリア人(当時イエスが属するユダヤ人とは仲が悪く、宗教的な習慣の違いからユダヤ人からは軽蔑されていたといわれている)がイエスのところへ戻ってきた。そしてイエス様はこのひとに「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、「癒し」に加えて「救い」を宣言されるのです。

これは、戻ってこなかった残りの九人の癒しが取り消された、ということではありません。おそらく彼らは無事に祭司に「あなたは清い」と宣言してもらい、社会復帰ができたはずです。しかし人間である以上、この10人の生活がこれからすべて順調にいく、ということはない。また別の重い病気にかかるかもしれませんし、様々な困難に出会うかもしれません。しかしそのときに、このサマリア人はイエスの救いの宣言を思い起こすことができます。「あなたは癒されただけじゃない、救われている。神によって、神に愛されたものとして、神のものとなっている。」一度は存在が失われたと思った自分が、神から来たイエスによって救われ、癒された。それは、たとえもう一度病気になったとしても、その人の人生すべてにおいてその人を支え続けます。イエス様の行なわれる癒しは、決してただ病気を治すことだけが目的なのではありません。イエス様を送ってくださった神の恵みが、あなたとともにあるのだと、その「救い」の宣言なのです。そのことを知り、主に感謝することは、わたしたちがそれを思い起こし、そこから力を得ることです。 主の御前に集い、救いの言葉を頂き、感謝と賛美をささげる礼拝はそのしるしなのです。

小さなところに潜む愛

2016年9月18日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書16:1〜13
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
今日の日課である「不正な管理人のたとえ」は、聖書を読むときにもっとも理解に苦しむ箇所のひとつでしょう。「不正」をしたのに、主人にほめられている。そしてイエス様は明らかに「よいお手本」のたとえのように語っておられる。ここに戸惑いを感じます。決してストーリーそのものが難しいというわけではないのですが、私たちの常識では考えられないことを言われていて、イエス様の真意を理解するのが難しい、という個所ではないかと思います。

しかし、倫理的なよしあしはともかく、やはり彼の賢いところ、そして彼のこの緊急時における判断力は尊敬に値するのです。私たちであればどうするでしょうか。逆に主人の金をさらにごまかして、ひとりで生きていくことを考えるのではないでしょうか。しかし、この管理人は興味深い方法に出ます。主人のお金を自分のためにごまかすのではなく、主人に負債を負っている人たちを次々に呼んで、その借用書を書き直させるのです。しかも、この方法で、この管理人は一切損をしません。そして、さらに信じがたいことに、この主人はこの不正な管理人の「抜け目のないやり方をほめた」というのです。

この物語の背景に目をとめると、この物語の中心が見えてくるかもしれません。この物語の直前では、先週、イエス様がファリサイ派の人々に対して「見失った羊」「失われた銀貨」「放蕩息子のたとえ」といったたとえ話を語られています。しかもそれはイエス様が、徴税人や罪びとと一緒に食事をされているのを見て彼らが文句を言い、そのことに対してイエス様が語られたたとえ話でした。その延長線上としての、今日の物語です。

神に負債を持っている。だから、その負債をチャラにするために、律法を守って、神に受け入れられる人間にならなければならない。そしてそのためには周りの「清くない」ものとの関係を断ち切って、清いものに触れることなく生活することが素晴らしいとされた時代でした。わたしたちは、ため込むことによって、自分を素晴らしいものにしようとします。しかし、それによってわたしが神様に負っている負い目は帳消しになるのでしょうか。わたしはそうは思えません。

しかしこの不正な管理人は、自分が一人で生きていくために主人の金をさらにかすめとるのではなく、主人の金を使って、しかしそれを周りと分かち合って生きることを考えた。自分がためこむのではなく、主人から任されたものを他者のために使うことによって、その中で活路を開こうとしたのです。

「不正にまみれた富で、友達をつくりなさい」。すごい言い方ですが、ここには、この世の友達、すなわち『この世』にしっかりと根を張って生きることへの招きも、感じ取ることができるでしょう。それも神様からいただいたものです。どんなにつまらないものに見えても、どんなに小さいものに見えても。小さなことに忠実であること、そして他人のもの(神さまから預けられたこの世の富)に対しても、忠実である、そのときに私たちは、そのような小さなところを軽蔑されず、大切なものとしてみなしてくださる神様の姿を見出すことができるのです。

不正にまみれた自分、神の前に正しくない自分。しかし主は、そのようなわたしたちの生きる営みを軽蔑されることなく、どろどろの私たちがこの世の中で、それでも精一杯生きようとすることを、喜んでくださいます。その恵みの中で、大胆に生きていくものでありたいのです。

2016年8月28日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝説教要旨 ルカ福音書14:7〜14
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。」「招待を受けたら、むしろ末席に座りなさい」これは、自分から食事の席で上席を選ぶ人たちに対して、イエス様が言われた言葉だと記されています。遠慮深い人の多い現代にも通じるマナーとして、たいへん私たちになじみやすい話かもしれません。

 現代の日本では、好んで上席を選ぶ、という場面はあまり見られないように思います。しかしだからといって、わたしたちがイエス様がおっしゃった、ふさわしいものを持っているという意味では決してないと思います。たとえ私たちが遠慮して末席を選んだとしても、私たちの中にはへりくだっているように見せながら、内心では高ぶっているということがあるのです。

 「上席を選ぶ」というのは「上席に座りたい心を持っている」ということです。いくら末席を選んで座ったとしても、私たちの中には上席に座りたい、という心がある。どこの席を選ぶにしても、やっぱりわたしたちの中には、謙虚に見られたい、出しゃばった人間だと思われたくない、自分はそんな人間ではない、という下心が必ずあってそこから逃れることはできない。本当に心からへりくだる、というのは不可能に近いくらい難しいことなのだと、思い知らされます。

 上席に座りたがるわたしたち。たとえ末席に座っていたとしても、心の中の高ぶった気持ちから逃れられない私たち。そう考えるとき、つまり自分は神さまに招かれるのにふさわしいものを、まったくもっていない人間であると気づかされます。しかし、そんな自分がいやになるときに、その自分に、目を止めて下さる方がおられます。

今日のたとえを話されたとき、イエス様がついておられたのは、宗教的エリートであるファリサイ派の議員の家の食卓でした。そしてそこに招かれた人々は、上席に着くこと、つまりこの食卓の中で自分が価値のある人間であることを周囲に示すことに熱心だったと記されています。そしてそれゆえに、ファリサイ派はしばしば聖書の中で、イエス様を受け入れない、敵対する存在として描かれます。しかし、そのファリサイ派の議員たちの招きを、イエス様は断られないのです。イエス様はそうやって、ご自分に敵対する者たちと、同じ食卓に着かれます。同じ食卓に着く、というのは「仲間である」ことのしるしです。イエス様は、ご自分を拒絶しようとする存在であっても、ご自分を受け入れない存在とであっても、ともに食事をしてくださるのです。

 今日のイエス様の例えは、天国の例えです。たとえの中の結婚式で「あなたを招いた人」というのは、つまり神さまです。「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」神さまは、末席にいるものにも目を止めて下さる。高ぶっている自分に気付かされて、神さまの前で身の置き所がなくなってしまうとき、しかしそんな末席で小さくなっている自分に、目を留めて下さる方がおられる。その方の招きに、生き方全体でこたえていくものでありたいのです。

いのちへの入り口

2016年8月21日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教要旨 ルカ福音書13:22〜30
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
「狭き門」(今日の日課では「狭い戸口」)という言葉は、普段から、倍率の高い入試や就職について用いられることがありますが、それはこのイエス様の言葉から来ています。

イエス様がこういわれたきっかけは、ある人がイエス様に「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことでした。確かに気になるところです。神さまが救う人と救わない人とは、どうやって決められているのか。何人くらいが救われるのか。そんなときにこの「狭い入口から入るように努めなさい」と言われると、自分はそこに入れないかも、と不安にもなります。

しかしここで印象的なのは、「狭い戸口から入れ」と、救われることの難しさを示しておきながら、後半では「西から東から、南から北から」…と、多くの人が神の国に招き入れられる様子をイエス様が言われていることです。狭いからと言って、入れる人数が少ないとは限らないのです。狭くて見つけにくいかもしれないけれども、しかしそこには民族や文化の違いを超えて、神さまから喜んで招き入れられる。神の国はそのような場所でもあるのです。 イエス様が言われるのは、狭い戸口だから入る人数が制限されている、というのではなく、見つけにくいところ、気づきにくいところにこそ、本当に大切な神の道はあるんだよ、という意味なのでしょう。

確かに今日の聖書の中では、その入り口から拒絶される人のことも語られています。しかしここで問われているのは、天国の入り口まで行ったときにどう答えたらいいかを心配することではなく、今をどう生きるか、ということなのではないでしょうか。ボンヘッファーというドイツの牧師は、「キリスト者であるということは、自分を聖人や罪人に仕立て上げることではない、キリスト者であるということは、ただ、人間であることだ」(獄中書簡、意訳)

日々の生活の中において、目の前に、狭い戸口と広い戸口とが置かれている。わたしたちは何も考えずに広い方、自分がそのとき気持ちが良いと思う方を選びがちです。人を愛するよりも憎む方、人を守るよりも傷つける方…そこで意識的に反対側の道を選ぶのは、わたしたちにとっては決して簡単ではありません。狭い戸口と、広い戸口が目の前に置かれている。広い方が通るには楽で、私たちにとっては選びやすいのです。しかしそこで、あえて狭い道を選び取る。自分を守って誰かを傷付ける道と、相手を生かす道が置かれていたらそこで、相手を生かす道を選び取る。

 もちろんそれは決して楽な道ではなく、わたしたちはしばしばそう生きようとするときにつまずき、砕かれます。しかしイエス様はこうも言われるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9章等)聖書は、神から遠いとみなされていた人たちのために、神さまは救い主を送ってくださったのだと語ります。私たちが何も考えずに広い戸口を通る時ではなく、ときに失敗をしながらでも、それでもひとつひとつ、狭い戸口を生きようと努めるときにこそ、その恵みの大きさが理解できるのではないでしょうか。一つ一つを大切に生きる先で、わたしたちを迎えてくださる方がおられる。その方に信頼しながら、歩みたいのです。

神さまをつかまえる

2016年7月31日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書11:1〜13
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
今日の福音書の日課を、どう読まれたでしょうか。神さまと人間の関係を、このような関係に例えることに違和感がある方もおられると思います。今日の福音書の日課は、「祈り」について教えています。私たちはおそらく祈るのがあまり得意ではないと思います。神さまは変わらない、神さまはすべてを決めておられるのだから、祈っても意味がない、と思う人もいるかもしれません。確かに自分が祈ったとおりにすべてが叶えられる、ということはめったにありませんし、祈りで神を動かす、そんなことがあってはならない、という人もいるかもしれません。また、あまり自分勝手な祈りをしてはいけないのではないか、と思われるかもしれません。

 今日の福音書の中には、わたしたちが祈る「主の祈り」と言われる、イエス様が教えてくださった祈りについても記されていますが、この祈りの中でイエス様は「誘惑に合わせないでください」と祈るように、と教えてくださいました。「誘惑を乗り越えるから見ていてください」や「誘惑に打ち勝つ強い心をください」ではないのです。「わたしたちは弱く、誘惑に勝てません。ですから神さまわたしたちを誘惑に合わせないでください」こう祈っていいのだ、とイエス様は言われます。

いちばん最初に読まれた旧約聖書の「アブラハムのソドムのためのとりなし」、これもまた、「こんなふうに神さまに祈ってもいいの?」と思える箇所です。ここでのアブラハムは、一見遠慮しているようにみえますが、強気です。「神さま、怒らないでください。」「神さま、もうちょっとだけ言わせてください。」「恐れながら申し上げます」…そしてそのようなアブラハムの求めに応じ、神さまは態度を変えてくださるのです。

 神さまが態度を変えることに対して違和感を感じる方もおられるかもしれません。たとえばギリシャ哲学における「神」という存在は、永遠不変の存在です。神は絶対にして完全な存在ですから、人間がどんな状態であろうと、それによって神が左右されるなどということはありません。

 しかし、聖書の神様は実はそうではない。実は聖書の神様は、人の求めに対して変わってくださる神さまです。このようなところを読むと、よく「神さまって人間っぽいですね」と言われます。聖書の神様は、実はとても人間くさい。聖書の神さまは、人と関わりたいと願う神さま、人とコミュニケーションをとりたいとそう願われる神さまなのです。イエス様は、神さまに対して「父よ」と呼ぶことを教えてくださいました。神さまはわたしたちのことを全部わかってくれてるから、祈らなくてもいいんだ、と言われることもあります。しかし、神さまはそれでも私たちと関わりたいと、私たちとコミュニケーションをとりたいと、そう願われる神さまなのです。

私たちは、自分で自分の心を落ち着かせるためだけに祈っているのではありません。祈ると落ち着く、というのは大切なことですが、もっと大切なのは、この祈りの向こう側に確かに神さまがいてくださって、わたしはいま、神さまとコミュニケーションをとっているんだ、とそう信じることです。その方は、わたしたちと関わりたいがために、「肉(をもった人間)となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書1:14)方です。その方が確かに、わたしたちの語る言葉を聞いて、わたしたちと関わってくださっている。そのことに信頼して、大胆に祈っていきたいのです。

あなたはあなた,それでいい

2016年7月24日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書10:38〜42
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
今週の福音書も、先週の「よきサマリア人のたとえ」と同じく、教会に長く通っている人とってはとても有名な個所、しかし先週とは違い、あまり人気がない箇所でもあります。初めてこの聖書を読んだ方も、この場合はマルタに同情するのではないかと思います。家の女主人であるマルタが、キリストとその一行を迎えて、もてなす準備を始めた。この家はよくイエス様が立ち寄られる家だったようで、マルタもイエス様を尊敬しており、だからこそ腕によりをかけて準備をしていたはずです。しかし妹のマリアは、マルタの仕事を手伝いもせずに、人々と一緒にイエス様の話を聞いていた。自分が忙しく働いているのに、一緒に手伝うべき立場の妹が自分は何もせずにイエス様のそばに座っていたら、いらいらするのは当たり前ではないかと思えます。それを、マリアのほうが正しくて、マルタの方が間違っているように言われたら、特に忙しい生活を送りがちな現代の私たちからしても、納得がいきません。

マリアの方が優れていて、マルタは劣っていると、確かにそう解釈されてきた歴史もあります。イエス様の足元に座って神さまの言葉を聞くことの方が、働いてばかりいて、神さまの言葉を聞こうとしない態度よりも優れていると。

しかし、エックハルトという人がこのようなことを言っています。この場合、マルタの方が信仰的にマリアよりも成長していて、マリアの方は、まだ信仰的に未熟だったんだ、と。つまり、マルタの方は、人のお世話に回ることができるくらいの余裕があった。でもマリアの方は、まだその余裕がなく、ただ座ってイエス様の言葉を聞くことが必要なときだったんだ、と。このときのマリアは、まだ立って働く前の段階で、ゆっくりとみことばを聞く休息が必要な時だったのだ、というのです。私たちも、立ち上がれないときがあります。他の人が働いているのにいいのかなあ、と思う時もあります。しかしそのときイエス様はこう言ってくださるのです。「マリアは、良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」

そして、その同じイエス様のまなざしは、マルタを無視しているわけではありません。「マルタ、マルタ」と2回呼ばれる名前は、イエス様が大切に思っておられるというしるしです。イエス様はマリアをひいきして、マルタを退けておられるわけではなく、マルタのこともちゃんと気にかけてくださっている。そして、イエス様は続けてこう言われるのです。「あなたは、多くのことに思い煩って、心を乱している」。イエス様はここで、マルタのもてなしを否定しておられるわけではありません。働くのがダメってことではなく、そのことでマルタが心乱されているのを、イエス様は心配してくださっているのです。ここには、近くで話を聞いているマリアのことだけではなく、マルタのこともちゃんと見ているよ、という、イエス様の思いがあります。神さまは、ちゃんと、遠く離れている人のことも、近くにいる人と同じように心に留めてくださっている。それがわからなくなり、「なんで私ばっかり…」と思ってしまう時が、確かにあります。そういう時は、私たちはやはりマリアのようにイエス様の近くに座ってイエス様から栄養をいただかなければいけない時なのでしょう。 多くのことに心を煩わされ、自分のことも神さまのことも見えなくなってしまっているとき、しかしそのときでも神さまは私たちのことを確かに見てくださっている。疲れている時こそ、そのことを思い出したいのです。多くのことに心を煩わされ、自分のことも神さまのことも見えなくなってしまっているとき、しかしそのときでも神さまは私たちのことを確かに見てくださっている。疲れている時こそ、そのことを思い出したいのです。

あなたのための場所がある

2016年7月10日(日)召天者記念礼拝説教要旨 ヨハネ福音書14:1〜7
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
夏の召天者記念礼拝です。先に天に召された兄弟姉妹のことを思い起こし、神さまのみもとでの平安に思いをはせたいと思います。また、特に今年は、4月からの熊本地震や一連の災害によって被害を受けて亡くなられた方々のためにも、祈りを合わせたいと思います。

 今日の福音書は、イエス様の告別説教、十字架にかかる前の晩に弟子たちに語られた、「遺言」です。ここで弟子たちはイエス様との別れを感じて、不安の中にいます。その中でイエス様に質問をするトマスは、イエス様の弟子のひとりです。「疑いのトマス」という不名誉な言われ方をすることがありますが、目で見なければ信じない、という点においては、彼は私たちの代表ではないかと思います。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちはわかりません。」これは、死や終わりに対する私たちの正直な態度、特にこのような思いがけない出来事に遭遇した際の、私たちの正直な気持ちかもしれません。イエス様は「あなたはその道を知っている」と言われる。確かにそう思えるときもあります、しかし、そうでないときもあります。神様の御心がどこにあるか、自分の場所が本当にあるのか、わたしの大切なあの人のための場所も本当にあるのか、「わたしにはわかりません」、それはわたしたちの正直な気持ちではないかと思うのです。

 しかし、わからない、と答えることは決して不信仰ではありません。黙示録においても著者ヨハネが、幻の中で白い衣を着た人の行列を見たとき、主の化身と見られる長老に「この者たちは誰で、どこへ行くのか」と尋ねられ、「わたしの主よ、あなただけがご存知です」と答えます(黙示録7章)。私にはわからないが、神さま、あなたがご存知です。自分ではわからなくても、神様がご存じでいて下さる、そのことに私たちは信頼してよいのです。

私にはわかりませんが、あなたがわかっていてくださっています。そしてそれは、決して私たちを悲しませるものではないと、私は信じます。イエス様はトマスに言われました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。父というのは、主イエスを送られた父なる神さまのことです。イエス様は言われました、わたしを知っているということは、神様を知っているということと同じなのだと。イエス様を知っているなら、もう神さまを見ているのだと。

「今から、あなたがたは父を知る」とイエス様は言われます。今から、イエス様は十字架へと向かわれます。私たちのためにすべてをささげつくす、という神さまの御心を示すために、十字架へと向かわれるのです。そのイエスさまが、こう言われます。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。」天国には場所がある。私たちのための場所がある。「大きな苦難を通って」(黙示録7章)召された方々の場所も、ちゃんとある。なぜ突然の別れが起こるか、なぜ悲しい別れがあるか、そのこともわたしたちからは知ることができません。しかし、それでもなお、神さまの御心は、私たちへの愛である、それ以外ではない。そのことに私たちは信頼したいのです。

Nachfolge−キリストに従う

2016年7月3日(日)聖霊降臨後第7主日説教要旨 ルカ福音書9:18〜26
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
Nachfolge−「服従」という意味を表すドイツ語であり、ボンヘッファーというドイツの牧師の書いた、日本では「キリストに従う」と訳された著作名でもあります。この人は、信仰と言うのは服従を伴うのだ、と語り、またそのとおりに生きました。彼は「安価な恵み」と「高価な恵み」ということも語っています。神からの恵みは本当は、神に従うことを伴う非常に高価なものであるのに、私たちはそれを自分の都合のよい「安価な恵み」として扱ってしまっている、というのです。

聖書はもちろん、わたしたちの救いを語ります。しかし聖書は確かに、イエス様の命令も語っています。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。十字架とは、イエス様がわたしたちが背負うべきものをわたしたちの代わりにになって下さった、という証です。イエスの弟子になるということは、イエスのために捨てられ、イエスとともに、他者のために生きること、他者のために様々な重荷を引き受けることだというのです。

厳しい言葉です。だとすると私たちには英雄的な行為が求められているのでしょうか。世界を救うヒーローのように死ぬことが求められているのでしょうか。しかしイエス様は「命を捨てる、命を失う」と言いながら、「日々」という言葉を用いておられるのが印象的です。簡単に命を投げ出すということではないのは明白です。ここでイエス様がおっしゃっているのは、命を無駄に「捨てろ」、ということではなく、「キリストのものとして生きなさい」、ということです。「自分を捨て」とは、自分ではなく、他の何かのために生きることを指します。そしてそれは「『日々』、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主が言われるように、決してわたしたちから遠いところではなく、わたしたちが生きるこの世界、現実の中でこそ語られる言葉なのです。そうやって、イエス様に後についていきなさい、というのです。

それはもしかすると、ただ命を無駄に投げ出すことよりも、厳しい歩みかもしれません。頭でわかっていても、イエス様についていく、それが簡単なものではないことをわたしたちは知っています。わたしたちはどこまでも自分の身勝手さや自分中心なところ、人を生かすより、人を傷つけてでも自分が生きる、ということを求めてしまうのです。

しかし、聖書が語るのはその「罪人の義認」です。私たちは神に背く、神様が望む通りのところをずーっとまっすぐに行くことなどできない。しかしそのわたしたちを、強い私たちではなく、弱い私を救うために来てくださった方がおられる。わたしたちは決してふさわしいものではない。しかし、にもかかわらず、そのわたしたちのところに来てくださった方がおられます。イエス様から「あなたはわたしを何者だというか」と訪ねられたペトロは、「あなたは神からのメシアです」と答えました。メシアと言うのは、ご存知の通り、神さまが救いのために送って下さると約束されていた、救い主のことです。あなたは、神さまが約束通りに送って下さったメシアです、救い主です、とわたしたちは告白します。

わたしたちのところに神のところから訪れ、わたしたちに先立って、わたしたちのために命を与えつくしてくださった方が、わたしたちの前を歩んでおられます。「わたしはあなたがたより先に十字架にかかり、その極限の中から三日目に復活する」そう約束してくださった方、その方についていく歩みへと、今日、ここから出発していきましょう。

涙をぬぐってくださる方

2016年6月19日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書7:11〜17
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
「泣かなくともよい」という言葉は、場合によってはあまり適切なものとは受け取られないかもしれません。大切な人と、突然引き離されて、もう会うことができない。そんなときに、この「泣かなくともよい」という言葉は、どのように聞こえるでしょうか。場合によっては空虚な慰めにしか聞こえない、そんなときも私たちには確かにあろうかと思うのです。

今日、イエス様に「泣かなくともよい」と言われたのは、息子を失ったひとりの女性でした。聖書は、この母親は夫のいない寡婦であり、この息子はひとり息子であったと語っています。当時の社会において、女性が一人息子を失うということが、その生活にどれだけ影響を与えるかということは想像できますし、ただひとりの家族、それは彼女のすべてであったはずです。その大切な存在が、取り去られてしまった。その棺は、町の外へと運ばれます。亡くなった人は、町の外に運び出され葬られるのが当時の習慣でした。町の中は生きているものの世界、それに対して町の外は死んでいるものの世界であって、死んだ者は生きているものの世界のほうにとどまることはできないのです。この母親と息子の間には、もう超えることができない大きなものが横たわってしまっているのです。

しかし、その、死からいのちへと運び出されようとする棺に向かって、まさに彼が行こうとする向こう側から、近づいてきてくださる方がおられます。イエス様はここでちょうど、町の外から中へと入ってこられようとするところでした。そして嘆き悲しむ母を見て、主は「憐れに思われる」。そして心を動かされたイエス様は、このお母さんに「もう泣かなくてもいいよ」と声をかけ、そしてこの息子を起き上がらせ、この母親に返されるのです。

「もう泣かなくともよい」…いちばん最初に述べたように、人によっては、引っかかる言葉かもしれません。また、このお母さんは息子を返してもらった、しかし世の中にはそうではない別れのケースがたくさんある。このときの奇跡だって一時的なものに過ぎず、やがてまたいつか必ず、この親子はこちら側と向こう側に別れることになるのです。

しかしわたしたちは、この奇跡の「死者が起き上がる」という表面だけのできごとではなく、その背後にあるものを見たいのです。イエス様は、この母親の深い悲しみと苦しみに心を動かされ、共に心を痛めてくださった。そしてイエス様はその憐れみにより「近づいてきて、棺に触れ」られます。もうすべてが終わった、という悲しい行進、しかしそこに心動かされ、近づいてきて抱きしめてくださる方がおられるのです。

それを見ていた人々は言いました。「大預言者(=神の言葉を預るもの)が我々の間に現れた」「神はその民を心にかけてくださった」―このイエスという方の中に、神のメッセージが表れている、この方を送ってくださった神さまは、わたしたちのことを確かに心にかけてくださっている―この、イエス様によって現れた神の憐れみは、たとえこの親子がもう一度別れる時が来たとしても、決してこの親子から離れることはないのです。

死の世界は、向こう側の世界は、わたしたちからは手が届かないところです。しかし、その向こう側から来られた方が、近づいてきて、憐れみ、語りかけ、手を触れてくださる。そのイエス様を私たちに与えてくださった方の憐れみ、私たちはそこに信頼し、すべてをゆだねてよいのです。

わたしにだって、恵みは届く

2016年6月12日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書7:1〜10
イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
この1年、礼拝で読み進める「ルカによる福音書」の特徴の一つは、他のマタイ・マルコ・ルカの三つの福音書に比べ、「異邦人にも開かれた恵み」というのを強調しているところであろうかと思います。聖書の民の選民思想はよく知られたところであり、ユダヤ教といえば排他的、というようなイメージを持つこともあると思います。

そして、この選民思想が聖書の特徴、とよく言われるのですが、旧約聖書にしるされている神のメッセージは、実は決して排他的ではないのです。聖書の中には、神の民に属さない「寄留者」への配慮がそこかしこに語られています。なぜならあなたたちは昔、エジプトの国で寄留者だったからだ。そこで苦しい思いをしたからだ。だからむしろ聖書は自分たちの中のよそ者に親切にせよ、と語ります。本日の列王記上8章41〜43章に見られるように、実は彼らもしっかりと神の愛の対象内にあるのです。

そして今日の福音書も、ひとりの異邦人の求めに応じて癒しを行うイエス様の姿を語っています。ひとりのローマ人の百人隊長が、病になった部下の癒しをイエスに頼む。彼は、直接来たわけではなく、ユダヤの長老たちを使いに出します。この時代は、ローマに支配されていることへの鬱屈も重なって、神の民の排他意識は非常に強いはずなのですが、しかし、このとき長老たちはこの百人隊長のために心からのとりなしをしています。「あの人はそうしてもらうのにふさわしい方です、なぜなら自分たちに親切にしてくださるからです」。都合がいい考え方ですけれども、「自分たちに親切だから、あの人は自分たちの神に愛される資格がある」この理屈はわかりやすいものです。

しかし、この百人隊長はそう考えてはいなかったようです。彼が直接来なかったのは、ユダヤ人の習慣とその信仰とを尊重していたからです。だからこそ彼は、ローマの権威でイエスを呼びつける、というのではなく、ユダヤの長老たちにお願いに行ってもらう、という形をとります。そして、彼はさらに、友人を送ってそれを差し止め、「ただお言葉だけをください」とだけ言うのです。

これはただの遠慮だけではなく、イエス様が「イスラエルの中でもこんな信仰を見たことはないぞ!」と感心されたように、実はものすごく信仰深い言葉です。

この百人隊長は、自分が当時のユダヤ教の感覚では救いから遠いものであるということをわかっていた。しかし彼はそれでも、その自分にも神の恵みは届くのだと確信しているのです。彼はそれを「権威」という視点から語ります。彼は、自分が持っている権威が、部下に言うことを聞かせるだけのものではなく、彼のいのちに対する責任もあるのだ、と自覚していました。だからこそ、彼は確信できたのかもしれません。わたしの部下が大切にされるべき存在であるように、イエスさまから遠く離れたところにいるこの私のことも、神さまは大切に思ってくださっているのだと。わたし(と部下)のいのちもまた、神の大きな計らいの中にあるのだということを。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」この言葉は旧約のいちばんはじめ、神の民の選びよりも先に置かれています。それは一民族や宗教に限定されない、世界全体に及ぶ神の権威です。言い換えると、神はこの世のすべてのいのちに責任を持って下さっているということです。たとえ神の恵みと自分との間に、どんなに壁があるように見えても、自分の立場や、ときに自分の罪が、どれほど神の言葉の働きを妨げているように見えても、それでも神の言葉は確かに生きていて、すべてを超えて届く。そのことに信頼したいのです。

根を張って生きる

2016年6月5日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書6:37〜49
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
本日の福音書の日課は、マタイによる福音書では有名な「山上の説教」にあたる部分、ルカによる福音書では「平地の説教」と呼ばれている箇所です。マタイもルカも、長い教えのしめくくりとして、イエス様は「岩の上に建てられた家」ということを語って下さった、としています。

ここでは「聞いて行う」ことが「岩の上に土台を据えて家を建てる」ことに、「聞くだけで行わない」ことが「土台を据えずに家を建てること」とたとえられています。とてもわかりやすい箇所です。私たちは今、この状況の中で、家の土台がどれくらい大切か、基礎がしっかりと立っていることがどれくらいわたしたちにとって心強いことかというのを、実感しています。

私たちは、土台はなるだけ深く掘らなければならない、と考えるかもしれません。しかし、建物を建てるときに大切なのは、どれくらい深く掘るかではなく、どこに据えるのか、なのだそうです。が大事なのだそうだ。硬い岩盤、正しいところにちゃんと基礎が届いていれば、その建物は頑丈なのだということです。これをこのイエス様のたとえに当てはめるならば、私たちの信仰生活、もっといえば私たちが生きるということについて、大切なのは、どれくらい深くたっているか、ではなく正しい地盤に立っていることなのではないでしょうか。

本日最初に読まれたエレミヤ書7章の日課は、神殿に入って行く人たちに対して神さまが語られた言葉が記されています。「お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉により頼んではならない」

主が言われるのは「正しく生きよ」ということです。そしてそれは見せかけの敬虔さではなく、神と隣人との関係を正しくせよ、ということなのです。そしてその関係を正しくするのに、今日の御言葉はわたしたちの内面を見つめなおせ、とそのように言われている気がする。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」「あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

私たちは、自分が裁かれないために、人を裁く生き物です。自分が罪びととされないために、人を罪びとと決めつけます。そして自分の中の目の中の丸太から目をそらすために、人の目の中のおがくずを指摘するのです。その私たちにとって、主の言葉を「聞いて、行う」ことは、挫折の連続です。砕かれること、自分が「悪い木」でしかないことを、見せつけられることの連続です。しかし、それでもわたしたちが、硬い岩盤を探し求め、その上になんとか根を張ろうとあがくときに、実はわたしたちはその私たちといつの間にか、しっかりとかみ合っているものを見出します。わたしたちは悪い木に過ぎないかもしれないが、しかしそのわたしたちを支えるものがある。私たちは弱い、罪深い。しかし、そのわたしたちを支えて下さるのは、他でもない岩盤なのです。

イエス様のみことば、時に厳しいみことばを土台として、そこに根を張って生きる。それは、そうすれば洪水が襲わない、ということではなく、洪水、試練が襲うときにわたしたちを支えてくれるものがあるということなのです。その方は、あの十字架の上で、私たちのためにすべてを投げ出してくださいました。わたしたちの弱さを知ってなお、いえ、知っているからこそ、私たちのためにすべてを与えてくださったのです。そのイエス・キリストという方に信頼し、その方に聞くところから、わたしたちも「聞いて、行う」歩みへと押し出されていきたいのです。

愛せよ、と招く声

2016年5月29日(日)聖霊降臨後第二3主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書6:24〜36
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
聖壇にかかる布の色が緑に代わり、「信仰の成長の季節」が始まりました。先週の三位一体礼拝の中をひとつの区切りとして、教会の暦は「キリストの半年」から、「教会の半年」という季節へと移り変わっています。その先週の礼拝の中でわたしたちはこの聖書の言葉を聞きました。「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(旧約聖書、イザヤ書6:8)。キリストの半年を受けた「教会の半年」は、教会が神様からの委託を受け、この世に歩みだす時です。イエス様によって示された神の恵みを知ったわたしたちが、神からの委託を受けたものとして、この世の中でどう生きるかを考え、歩む季節なのです。

そのわたしたちに今日語られる言葉は、イエス様が語られた言葉の中で、もっとも厳しい言葉のひとつです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者、あなたから奪おうとする者に、反対の頬をも差し出し、どこまでも与えなさい。」ルカ福音書が書かれた当時のクリスチャンは、実際に迫害の真っただ中です。当時の世間の考え方としてもやはり、友人には善を行うように勧められるが、自分を憎んでくるものには敵対してもかまわない、というのが一般的でした。しかし、イエスさまはその中で「敵を愛せ」「どこまでも与えよ」と言われたのです。

現代の私たちにも、このおきては、決して簡単に受け入れられるものではありません。小さないさかいや争いの中でならいざ知らず、人間関係や社会の中で大きな悲しみや苦しみを受けている方々へ、この言葉を簡単に言い放つことはできません。

しかし、それでも私たちは、このイエス様の言葉を、言い訳をしたりごまかしたりすることなく、素直に受け取りたいのです。この言葉はわたしたちを生かす言葉です。相手の敵意に対して自分の感情に任せて敵意を返すのではなく、相手を生かす道、祝福する道を選び取る。それでも敵意を返すことをやめられない私たちですが、しかしそれでもこの言葉は、わたしたちのいのちを生かす言葉です。実行できないからといってこの言葉を否定するのではなく、はい、そうです。あなたの言われることこそ、本当にわたしたちを人間らしく生かしてくださる道です、と受け取りたいのです。

イエス様は十字架上で、まさに命を奪われようとされるとき、こう神に祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ24:34)。そして、イエス様は、その人の敵意や悪意の極みである十字架の中から、神の力によって復活された、と聖書は語っています。これはわたしたちへの神様からの赦しです。「神さまが、わたしたちの悪に対して善を返してくださった」ということです。

「十字架」という人間の究極の悪に対して、しかし神さまは「そこからの復活」という形で、究極のゆるしを示してくださった。人の敵意や悪意の中でなお、イエス様、そしてイエス様を送られた神様は、わたしたちを愛しつづけられた。その恵みの中で、私たちはこの言葉を聞くのです。「あなたがたの天の父が憐れみ深いものであるように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」。そのイエス様の招きに、応答していくものでありたいのです。

すべてが聖くされる

2016年5月22日(日)三身一体主日礼拝説教要旨 イザヤ6:1〜8,ローマ8:1〜13
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
「三位一体」という、キリスト教に特徴的な、しかし非常にわかりにくい、そして説明しにくいできごとを記念する主日を、迎えています。わたしたちの創り主である父なる神さま、救い主である主イエス・キリスト、そして今も私たちに働きかけて下さる慰め主である聖霊とが、それぞれ独立した位格(パーソナリティ)を持っていながら、しかしひとりの神である。1+1+1=1であるというのですから、これほど私たちを迷わせるものはない。

三位一体というのは、キリスト教がローマ帝国の宗教として公認された頃に、教会の会議で採択された概念であり、他の宗教とキリスト教とを分ける、ひとつの目に見える判断基準となります。とはいえ、教会として公の信仰として信じてはいても、わたしたち皆が三位一体を理解し、心から信じ、説明できているかというと、とても難しいと思います。

しかし、初期のキリスト会は、わたしたちへの神様からの働きかけを言い表すために、この概念を選びました。なぜなら、歴史の中で神さまを信じる民が見てきた、そしてわたしたちがいま聖書の中に見てきた神さまの働きは、決してバラバラなものではなく、ひとつの大きな意思に基づいているからです。わたしたちが知る神さまは、わたしたちを造り、親のように見守って下さる神さまです。しかし神さまを言い表すには、それだけでは足りないのです。それは、天におられるだけではなくて、私たちを罪の重荷から救い出すために、ナザレのイエスという姿で、この地上に降りてきてくださった神さまです。そして、今もなお、神さまは見えなくても「聖霊」という形で共にいて下さる神さまです。やはり私たちが信じる神さまを表すのに、この父・子・聖霊、すべてがわたしたちを愛してくださるがゆえの、神さまの働きである、そう言えると思うのです。

父、子、聖霊という異なる、しかし一本の強固な芯をもって歴史を貫く、神の救いの出来事が完成した。この三位一体主日は、その神の救いの完成を記念する日です。今日、いちばんはじめに読まれた旧約聖書のイザヤ書の日課は、毎年この三位一体主日に読まれます。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う」。聖書の中で三回、というのは「完全」を指します。そして「地」というのは、神さまから遠く離れた世界のことを言います。私たちは神の救いの出来事を経験してなお、弱く、醜さを抱えて地上を生きる存在です。しかし、神の聖さは完全である。そしてその神さまの輝きは、神様から遠く離れていると思われる場所をも覆うのです。私たちが弱くても、神の輝きは「地をすべて覆う」。そこにわたしたちは、希望を持つのです。

この三位一体主日はわたしたちにとって「派遣の日」でもあります。教会の一年間の流れの中では、教会の暦を大きく二つに分ける、分岐点にあたります。ここまでは「キリストの半年」そしてこれから「教会の半年」という季節が始まっていきます。ここまで、私たちは、キリストの半年を過ごしてきた。クリスマスからイースター、ペンテコステと続く、イエス様のご生涯の中に示されたわたしたちへの救いの出来事を、わたしたちは体験してきた。こですから私たちは不完全なものでありつつ、それでもその私たちに生きて働いてくださる神さまの導きに信頼して、こう言うのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」神の恵みを受けた私を、この世に遣わしてください。あなたのお働きのお手伝いをするために、わたしを遣わしてください。

この地上を生きる

2016年5月8日(日)昇天主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書24:44〜53
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
教会の暦は昇天主日を迎えてました。教会暦では「キリストの半年」と言われる期間の最後を、私たちは過ごしています。この「キリストの半年」は、キリストの生涯をたどる半年ですが、それはつまり「イエス様がわたしたちに何をしてくださったか」をたどる半年でもありました。

そしてこの昇天主日において、イエス様は地上を離れて天へと昇って行かれます。弟子たちは、イエス様がずっとこの地上にいて下さると思っていたようです。弟子たちはイエス様に「主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのはこのときですか」と尋ねます。これは長年異民族に圧迫されてきたイスラエル民族の悲願でした。(※注)。

弟子たちにしてみれば、ついに自分たちを解放してくれるメシアがやってきた。この地上に神の国が建てられると、そう考えたのも当然ではないかと思われます。しかし、イエス様はその弟子たちを離れて、天へと昇って行かれるのです。そして、弟子たちは地上に残されることになります。この不安定な地上に。わたしたちは、自分の立っている大地が揺れ動く、という経験をしました。この地面が信用できなくなるという恐怖を、私も初めて味わいました。この2000年前当時も、ユダヤという国家はローマ帝国による滅亡の危機にあり、キリストを信じる者としても想像を絶する迫害にさらされる、そのような時代でありました。その地上に弟子たちは残されるのです。

しかし、弟子たちは残されるが、放っておかれるわけではない。イエス様は、弟子たちが聖書を悟ることができるように、心の目を開かれます。それは単純に聖書が知識として理解できるようになることではありません。自分の生きる場所において、神さまが聖書を通してわたしたちに語り掛けてくださっているということがわかるようになる、ということです。神様がわたしたちにしてくださったことがわかるようになる、ということです(エフェソ書1:17-19参照)。

神の子が、わたしたちの間を歩んでくださった。この地上を歩んでくださった。わたしたちはその方を排除しようとしたけれど、それでもその方は十字架からの復活という形で、わたしたちに救いの道を開いてくださった。私たちが神から遠く離れているように思えても、神はどこまでも私たちに対して愛であり続けて下さる。そのことを私たちは聖書から聞く。

しかもこれは弟子たちが残される、弟子たちが生きる地上で起こります。神の出来事は自分から遠いところ、天で起こるようなことではなくて、いま私たちがおかれているところで起こる。この地上を歩む中で、わたしたちはこの地上も主が歩まれた世界であること、見えないけれどもその方はいまも上から祝福の手を伸べてくださっているということ、そのことを聖書のみことばに聞きながら生きるのです。

これからイエス様の姿が見えなくなったとしても、私たちにイエス様が見えない現実があったとしても、しかし私たちの生きるこの地上もまた、イエス様からの約束の中にある。そこに信頼して、この地上を生きてまいりたいのです。

※注 この悲願が今の近代に成立した国家としてのイスラエルのパレスチナにおける仕業と結びついていること、そしてそれが長い間世界中で続いてきたキリスト者を中心としたユダヤ人虐めのある種の帰結であることは、私たちは反省をもって抑えておかねばなりません

愛の中を生きる

2016年4月24日(日)復活後第4主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書13:31〜35
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 この一週間、「祈られている」ということを強く感じています。これまでは、自分たちが祈る側だった。自分たちが支援をする側だった。しかし、逆の立場になって、全国の教会から祈られているということが、覚えられているということが、どれだけの力になるか、愛されているということが、どれだけわたしたちを癒してくれるか、そのことを実感しています。このときも、混乱している方々がおられます。今この時も、ここに来ることができずに、とにかく目の前のことを何とかしなければ、と、被災直後の現実を生きておられる兄弟姉妹がいる。なすすべもなく、これからどうしようかという思いで、避難所に座っておられる方々もおられると思います。しかしそこでわたしたちが確信をもっていま語ることができることがあります。「いま、苦しんでいるところ、痛んでいるところでこそ、イエス様は一緒にいて、一緒に苦しみ、痛んでくださっている」と。

 イエス様は今日の福音の中で、ご自分を裏切るユダが、そのために出て行ったときに、「わたしは栄光を受けた」と言われました。栄光、というとわたしたちは「自分が偉くなること」「自分が輝くこと」を考えます。しかしここでイエス様が「栄光」と言われていることはイエス様がこれからかかられる「十字架」です。

 わたしたちは「栄光」というと、自分が輝く栄光を考える。自分が大きくなる栄光を考える。しかし、ヨハネ福音書の中でイエス様が「栄光」といわれるとき、それはいつも十字架のことを言っているのです。栄光という概念は難しいけれども、神の輝き、とわたしは受け取っています。神の輝きが現れる。しかしそれはいわゆる平穏なところ、いわゆる幸福なところ、いわゆる物質的に精神的に満たされているところ、幸せなところではなく、あの十字架の上で示されました。人を生かすのに必要なあらゆるものが欠乏しているところ、すべてを放棄せざるをえなくなるところ。しかしそこにキリストがおられるのです。

 そこで現れる「栄光」は、神の輝きです。神の子であるイエス様が、ご自分の持っておられるものをすべて放棄して、あの十字架の上で持たないもの、捨てられたもの、苦しむものとなってくださった。そこに神さまのわたしたちへの思いが現れている。

 このヨハネ13章から17章は、イエス様が十字架にかかられる前の「告別説教」と呼ばれている場所です。そしてその説教を始める前に、イエスさまは自ら弟子たちの足を洗って、ご自分が「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)ことを示されました。キリストはあなたのためにやってきた、キリストはあなたのために生きた、キリストはあなたのためにすべてを与えつくしてくださった。その方の中に、神の輝きが現れている。

 それはキリストがご自分を大きくされるところではなく、キリストがご自分を低く低くされたところ、そこにこそ現れます。

 今、苦しんでいるところ、痛んでいるところ。しかし実はそここそが、神の栄光に包まれている。キリストの十字架によって示された、神の愛の中に包まれている。今、この地にある教会として、ここに立っている。その愛を、今こそ分かち合っていきたいと思うのです。

消えることない喜び

2016年4月10日(日)復活後第2主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書24:36−43
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 キリスト教では一年でいちばん大切な季節、イースターを祝っています。神さまから救い主としてこの世に来られたイエス・キリストという方が、2000年前のパレスチナで十字架にかけられて死なれたけれども、三日目にそこから復活して、その姿を現してくださった。それを祝うのが復活祭、イースターです。

 今日の聖書の個所は、そのイエス・キリストが復活して、弟子たちにその姿を現したときのこと。感動的な場面ですが、どこかおかしみも感じられます。まず、弟子たちの真ん中にイエスが立って、「やあ、平和があるように」と挨拶をされる。弟子たちはイエス様の復活が信じられずに亡霊だとおびえている。その弟子たちに対して、イエスは手と足を見せ、それでも信じられない弟子たちに、証拠として目の前で焼き魚を食べて見せる。それはきわめて日常的な行動です。「喜びのあまり信じられなくて動揺している」弟子たちの前で取る態度としては逆に変なようにも思えます。

 しかし、その手には釘のあとがあります。このとき、イエス様が見せた手と足には、釘の後があったはずです。よく似た別人なんかではなく、十字架の上で死なれたイエスと同じ方だ、あの十字架の上で苦しみを受けて死んでしまわれたのと同じ方だ、ということの証明です。イエスはあの時確かに、苦しみを受けて死なれた。しかも、ここで集まっている11人の弟子たちは、その時にイエスを助けるどころか、みんな逃げ去ってしまった人たちです。

 しかし、それでもなお、イエスは彼らの真ん中に現れてくださった。そして、目の前でおいしそうに食事をしてくださった。気取って食べたというよりも、高級料理を食べるようにお行儀よく食べるというよりも、むしゃむしゃおいしそうに食べて見せた、という方がこの個所には似合っているように思います。一緒にものを食べるということは、相手に心を開いていることのしるしでもあります。イエスという人は、確かに死んでしまったんだけれども、しかしそれを超えて弟子たちに再び現れ、あっけらかんと、自分の体を見せている。

 椎名鱗三という昔の有名なキリスト者は、聖書も神様も世の中のことも信じられなかったとき、この個所をナワトビで遊ぶ子供のように読んでみたところ、それまで苦しくてむずかしくて仕方なかったこの世が急にやさしく見えてきた、と語っています。ほらほら見てごらん、生きてるよ、わたしはちゃんと生きてるよ、大丈夫だよ!…イエス様はそのようにして、動揺する弟子たちを安心させてくださる。死を超えた方が、しかも誰よりも苦しい死を超えられた方が、そのようにして弟子たちと、そして今、この礼拝の中でわたしたちと出会って下さるのです。

 皆が恐れに取り付かれている中で、キリストは変わらず、しかしあの十字架の苦しみを超えたものとして、わたしたちと出会ってくださる。真ん中に立ってくださる。わたしたちがどんなに疑い、動揺するときも、わたしたちの真ん中で動揺せずに立っていてくださる方、愛であり続けてくださる方がおられる。この方に信頼をおいて、歩みたいのです。

心を燃やす恵み

2016年4月3日(日)復活後第1主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書24:13−35
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
 改めて、イースターおめでとうございます。イースターの喜びはまだ続いています。初代からのクリスチャンが、主が復活された日曜日を主の日として繰り返し繰り返しそのできごとを記念してきたように、今もわたしたちのただ中で続いている出来事であり、私たちは、イエス様が生きておられることを繰り返し確認します。それは、逆に言うならばわたしたちがその復活の喜びを忘れてしまいやすいからかもしれません。またもともと、復活というできごとが、一回聞いただけでは、そして知識として一回聞いただけでは信じがたい出来事であるからかもしれません。

 今日の福音書も、復活のイエス様と弟子たちとの出会いです。エマオへの道を、イエス様の弟子の二人が、ここ最近の出来事について論じ合いながら歩いている。彼らは暗い顔をして歩いています。彼らは失望の中で、おそらくふるさとであったエマオへと帰って行こうとしている。

 しかし彼らはイエス様の復活を知らないわけではありません。彼らは既に女性たちからイエス様の墓が空だったことを聞いているのです。にもかかわらず、彼らは復活を信じきれない。当のイエス様がいつの間にか彼らに寄り添って歩いておられるのに、そのことに気づかない。

 わたしが今回この個所を読んで印象的だったのは、彼らがイエス様を神から来た預言者だと認めていることです。イエスが十字架の上で死してなお、彼らはそのことを認めています。神さまの言葉を預かって人々に届けるのが預言者です。旧約の時代からしばしば神さまは預言者を神の民に送った。しかし神の民はそれを受け入れなかったのですが、またそれが起こってしまった。わたしたちはまた、昔の過ちを繰り返してしまった。その悲しみで彼らの目はふさがれている。希望が潰えてしまったことに絶望している。

 でもそこにそっと、寄り添って触れて下さる方がおられます。イエス不在の、神不在の暗い議論ばかりをしているわたし。しかしそこでそっと、話しかけて下さる方がおられる。そしてその方こそキリストだったのだと、わたしたちは、パンを裂くキリストにお会いしてようやく理解するのです。あの方が聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。そのときは気づかなかったけれど、私たちの心は燃えていたではないか…。

 こんなどうしようもない不信仰なわたしと、あなたは寄り添っていてくださった。そのキリストのことを、わたしたちはパンを裂くたびに思い起こすのです。知らず知らずのうちに寄り添っておられた、わたしたちの不信仰にもかかわらず、神不在の暗い議論にも耳を傾けておられたキリストを思い起こすのです。そして彼らは180度向きを変えて、エルサレムへ帰って行きます。彼らが帰って行く道は、これまでと同じ道です。しかし、今度は心が燃えています。それはその道が、復活の主と出会った道であるからです。

 わたしたちの聖餐は、最後の晩餐と共に、このエマオの出来事も追体験しているのだと考えることができます。しかしそれはただ、昔こんなことがあった、というだけのものではない。あのとき、クレオパともう一人の弟子の目を開いたのと同じ恵みが、今、この瞬間、今のわたしたちにも起こっているということなのです。パンを裂いて手ずから渡してくださる同じ主が、これからも共にいて下さる。その恵みを受け取って、私たちはここからまた自分の場所へと引き返していくのです。

何度裏切られても

2016年3月13日(日)四旬節第5主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書20:9〜19
イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
 四旬飾も佳境に差し掛かろうとしています。次週日曜からは、とうとうイエス様の最後の一週間 を記念する受難週が始まります。わたしたちはこの四旬節を単なる過去のできごととするのではな く、「今のわたしのための」メッセージとして聞いていきたいと思います。

 ぶどう園の農夫のたとえ、とてもわかりやすいたとえです。収穫を求めて何度も僕を遣わす主人、 しかし、その主人の申し出を拒絶する農夫たち。そしてついには自分の息子を送るが、結局農夫た ちはぶどう園を自分たちのものにしようと、送られた息子を殺してしまう。

 「そんなことがあってはなりません」。私たちもイエス様に向かってそう言いたくなります。そ して私たちはこのたとえがイエス様ご自身の十字架のことを指すことも理解できると思います。 ぶどう園は神の民イスラエル、労働者たちはその指導者たち。神は、ご自分の民に向かい、僕(預 言者)を何人も送ってメッセージを送り続けた。しばしばそのメッセージは厳しいものでした。し かし、預言者たちが語った神様からメッセージを、イスラエルは受け入れなかった。そこで神さま は「わたしの愛する息子が行けば、それくらい主人はこのぶどう園が大切なんだと気づいてくれる かもしれない、息子に行ってもらおう」と愛する息子であるイエス様を送ったが、神の民はそれを 拒絶し、『外に放り出して殺してしまった』というのです。

 「そんなことがあってはなりません」。私たちはそう言うかもしれない。しかしこれは今の私た ちへの言葉でもあります。ぶどう圃を預け、長い旅に出た主人。その間、ぶどう園が預かりもので あることを忘れてしまった農夫たち。それは私たちです。自分の本当の主人を忘れ、好き勝手にふ るまうわたしたち、そこに入ってくる神の言葉を拒絶するわたしたち、そしてついには本当の主人 となるべき方を拒絶し、外へと排除してしまう私たち。

 「家を建てる者が捨てた親石、それが隅の親石となった」。これは詩編118:22−23の引用です。 家を建てる専門家が邪魔だと退けた石が、実は家を完成させるのにもっとも重要な要石となった。 それは見抜けなかった者の見立て違いです。私たちが拒絶し、捨てたところに実はキリストがおら れる。「そんなことがあってはなりません」といった人々は、数日もたたないうちに「十字架にか けろ」と叫ぶのです。そしてやはりこれもわたしたちに語られている言葉であります。  私たちの常識であれば、もう終わりです。最後通牒を拒絶した。イエス様が言われる通り、復讐 されても仕方がない。しかし実際にはここではそれとは異なることが起こるのであります。私た ちの神さまに対する罪に対して、神さまはどうなさったか。神さまは捨てられたその方を、「救い の要石」とされたのです。人間のどうしようもない罪、その罪の究極の結果である十字架に対して、 神さまはしかし、悪に悪をもって報いることをされなかった。神さまは、十字架からの復活、と言 う形でわたしたちにご自身の意思を示されました。わたしたちが殺したものを、そこから立ち上が らせ、もう一度わたしたちがその差し伸べられた手を取ることができるようにしてくださいました。 本来ならば報復されても仕方ないわたしたちの究極の罪に対して、わたしたちの徹底的な拒絶に対 して、神さまはそれでもなお愛をもって返されたのです。

 私たちは十字架の前に痛みを覚えます。しかしそれと同時に私たちはそれでもあなたを愛してい る、という神の言葉を聞きます。その愛を知り、応えようとしていくものでありたいのです。

あなたに滅びてほしくない

2016年2月27日(日)四旬節第4主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書13:1〜9
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
 今日のルカによる福音書13章の前半の、人々からイエス様への二つの報告は、そのころ実際こ 起こつたできごとだったようです。支配者ローマによって引き起こされた事件、そして突発的な事故。 これらについて、イエス様は「彼らが他のどの人よりも、罪深かったからだと思うのか。あな たがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われました。こう聞くと、イエス様も、悪 いことをすれば悪いことが起こる、という因果応報の考えでおられるのか、と思うかもしれません。

 しかし、イエス様は、当時の一般的な考え方であった「この人あるいは先祖が罪を犯したから、 不幸が起こる」といった考え方を、きっぱりと否定されました(ヨハネ福音書9章など)。それは 確かなことです。しかしそれと同時にイエス様はみんながまったく罪がない、とも言っておられ ません。「あなたがたも悔い改めなければみな同じように滅びる」。イエス様が言われる「滅び」と は、肉体の滅びである死や、個人を襲う突発的な不幸のことではありません。そうではなく、わた したちの神さまの前での滅び、私たちが神様の前から離れて行ってしまうことを言います。イエス 様は突然の事故や天災は特別その人が罪深かったからではない、と断言しておられますが、それと は別に、わたしたちは皆、悔い改めが必要な罪びとである、ということも示唆しておられるのです。 わたしたちは突発的な事件や事故が「天罰」だなどということはできません。しかしそれとは別と して、わたしたちは今日のイエス様のことばを真剣に受け止めなければいけません。

 旧約聖書を見ると、神さまを忘れて神さまから厳しくとがめられる、そしてついには神を忘れた ことによって国を失ってしまう、神の民の姿が全編を通して措かれています。今日の最初の日課に 「これらのできごとは、わたしたちを戒める前例として起こったのです」ともあったように、聖書 の厳しい言葉は彼の世代への警告です。そしてそれは「あなたに滅びないでほしい、よいいのちを 生きてほしい、神さまや隣人・被造物との正しい関係の中で生きてほしい、その思いの表れです。 それは神さまから私たちへの親心です。

 いちじくの木のたとえが語られています。この主人と園丁、それぞれ神さまとイエス様、そして このいちじくは伝統的に神の民の象徴だとされています。3年も実をつけないいちじく(いちじく は植えたその年から実を結ぶそうです)を、ぶどう園の主人が「切り倒せ」と言う。しかしその世 話をしてきた園丁は、いやもう少し待ってください、もう一回チャンスをください」と訴えるの です。この話で面白いところは、この二人が、どちらもこの木を切り倒したくないということです。 「(お前が)切り倒せ。」「(あなたが)切り倒してください。」どちらも切り倒したくないのです。

 そして、どうしても木を切り倒したくなかった主人=神さまは、最後の手段として、イエス様を 送られました。しかし結果として、イエス様は人々から拒絶されて、十字架につけられた。いちじ くの木は、肥やしを受け入れなかったのです。とうとう、いちじくの木は切り倒されるしかなくな りました。しかし、ここで何が起こったか。神さまは、私たちの代わりに、イエス様をあの十字架 の上でお切りになったのです。十字架は私たちの罪と、そしてそれでも「あなたに滅びてほしくな い」と望まれた、神の愛のしるしです。私たちがこの四旬飾に、十字架を見つめるのは、神様に背 き続けて間違った方向へ歩んでしまう弱さと、しかしそれでも私たちを愛し抜かれる神の愛が現れ ているからなのです。この恵みを知るところから、本当の悔い改めは生まれるのです。

救いを見せられた人

2016年2月21日(日)四旬節第2主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書18:31〜43
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
 ルカ福音書におけるイエス様は、「旅をするイエス」だと言われることがあります。「イエスは、 天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)ルカは全体 の半分以上を、イエス様のエルサレムヘの旅、しかも十字架への旅に筆を費やしているのです。そ の旅も終わりに近づいてきたころに、今日の福音書の目の見えない人の癒しは起こりました。

 イエス様の時代は、現代以上に、ハンディキャップを持つ方にとっては生きにくい時代です。他 の人と同じように社会に適合することが今以上に難しかった目の見えない人は、道端に座って物乞 いをして生きるというのが、当時の当たり前の光景でした。この人は、イエス様と一緒に行く弟子 たちや群衆にとってはひとつの風景に過ぎなかったのかもしれません。

 「憐れんでくださいjと叫ぶこの人を、一緒に行く人たちは黙らせようとします。弟子たちから すれば、イエス様はこれから、イスラエルの救いという大事業を成し遂げに行かれるのだ、立ち止 まっている暇などないという、先を急ぐ気持ちだったかもしれません。ですから弟子たちはこの見 えない人の叫びを叱り付けて、止めようとする。しかしキリストは、その中で「立ち止まって」く ださるのです。「憐れんでください」という叫びを聞き、イエス様は、エルサレムへと向かう足を わざわざ止めて、向かい合ってくださる。イエス様はこの人を「そばに」、すなわちイエス様が歩 んでおられる道の真ん中に連れてくるように命じられます。そして「何をしてほしいのか」…「あ なたはどうしてほしいのか、わたしは聴きたい」と言ってくださる、語りかけてくださるのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉、一見、じやあ信仰というのは量の問題なのか、 信仰が弱い人はやっぱりだめなのかと思うかもしれません。しかし、この言葉はルカ福音書の中に 合計4度出てきますが(ルカ7:50、8:4、17:19)いずれも、この言葉をかけられるのは当時、 神様から遠いとみなされていた人々、社会から遠ざけられて周縁に置かれていた人、信仰がなく、 罪を犯したからこんな目にあっているのだとみなされていた人々でした。しかしその人たちに語ら れるイエス様の言葉「あなたの信仰があなたを救った」、あなたの神様にすがる思いは、神から確 かに受け入れられている、あなたは神から受け入れられている、という宣言なのです。またこれは、 神の救いの日には「目の見えない人の目が開かれる」と預言されていたことの成就であり、いやし という日に見える出来事を超えた、イエス様をとおして与えられる、神さまとわたしたちとの関係 の回復の宣言でもありました。そしてそれはイエス様が歩まれる旅の目標でもあります。

 しかし、その御計画は、弟子たちには隠されています。イエス様の十字架の意味も、イエス様が この目の見えない人を遠ざけるのではなく連れてくることを望まれることも、弟子たちは気づきま せんでした。そしてこの目が開かれた人も、このあと、自分がこの人、と望みをかけた先生が十字 架にかけられるところを見ることになります。そしておそらく彼も含めて、弟子たちはイエス様と ともにその場にとどまることができませんでした。彼が見たのは、目が見えなければ見ずにすんだ もの、見えなければ知らずにすんだ、どうしようもない人の罪でもありました。

 しかし「人の子は三日後に復活する」。その先で、復活というできごとが待つのだと今日の受難 予告は語ります。弟子たちの無理解のただ中をイエス様は十字架の救いに向かって歩まれる。私た ちの罪のただ中で、イエス様は救いに向かい歩んでくださる。その方に立ち返りたいのです。

愛が輝<ところ

2016年2月7日(日)変容主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書9:28〜36
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
 教会の麿は「変容主日」という主日を迎えています。高い山の上で、イエス様の顔の様子が変わ り服も白くなって輝きだす。どこか現実味のない、漫画やSF映画のできごとのように思えます。 ここで起こっているのは、天国の「垣間見」です。イエス様の中にある神の輝きというものが、目 に見える形で示された。

 そこに現れた「モーセ」も「エリヤ」も、ユダヤの伝統こおいてツートップといってもよいくら いに偉大で尊ばれている人物でした。ですからぺトロも「すばらしいことです、仮小屋(天幕、礼 拝所)を建てて、この光景をここにとどめておきましょう」というのです(実際にこれが起こった とされるタボル山には変容教会が立っています)。しかし、そのぺトロの申し出を拒絶するかのよ うに、三人の姿は神様の雲に包まれていきます。そして雲が去った後には、ただ「そこにはイエス だけがおられた」のです。

 そしてここからイエスは山から下り、山の上でモーセとエリヤとともに話しておられた「エルサ レムで遂げようとしている最期」へと歩んで行かれます。イエス様に今日あらわれた光は瞬間的な もので、すぐに消え去ってしまいました。そしてこれから弟子たちが見ることになる「イエス様が これからエルサレムで遂げようとしておられる最期」とは、天国の輝きどころか、ぼろぼろになる まで鞭打たれて十字架にかけられる、弟子たちが見たのはぼろ雑巾のようなイエス様の姿でした。

 しかし、そこにこそ、本当の栄光が現れる、と聖書はわたしたちに語っています。この「最期」 という言葉には「エクソダス」という言葉が使われています。この言葉は旧約聖書において、神が 神の民イスラエルの苦境を憐れみ、モーセを遣わし、民を奴隷状態から導き出された、「出エジプ ト」のできごとをいいます。イエスの十字架は「新しい出エジプト」だと言われます。神が、罪に しばられたわたしたちを憐れみ、その中からわたしたちを導き出すために、イエスをわたしたちの ただなかに与えてくださった。そしてその方は、もっとも惨めで無残な刑罰により、これから死を 迎えられます。しかしそこに、愛がある。わたしたちのためにすべてを与えつくしてくださる、ご 自分が持っておられた神の輝きすら放棄される、イエス様を送ってくださった、神さまからの愛が ある。このイエス様の中に、本当の天国がある。

 「人間の目は上へ上へと向かうけれども、神の目は、下へ下へと向かわれる」といった人がいま す。イエス様は、誰もが避けたいと思うところに、飛び込んでこられた。そしてそこで、いのちを 使いつくしてくださった。神の輝きは高い山の上のきらめく姿のイエスにではなく、ゴルゴダの十 字架の上で示されているのです。本当の天国は、決して手の届かない「あの世」的なものではなく、 この世界の現実の只中にこそ現れるのです。私たちも、イエス様とともに山を降り、その方に開き ながら歩んでいく一年でありたいと思います。

幸せのものさし

2016年1月31日(日)顕現節第5主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書6:17〜26
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
 「幸せってなんだろう?」というのは哲学や倫理、心理や経済学に至るまで、これまで多く考え られ、答えが探し求められてきた聞いだろうと思いますが、その中では多く「安定」や「平安」と いうものが、幸福感をもたらすものであるとされてきていたようです。

 私たちにとってもそうかもしれません。私たちは豊かで、何の心配もいらず安心していられる状 況に幸福を見出します。いろいろなものを持っていればそれだけ安心感が増すでしょうし、逆に私 たちは、何かが欠けているときに、私は不幸だと、そう考えることがあるかもしれません。

 しかし今日の福音書では「貧しい者は幸いである」(ルカ6:20)・・・私たちの常識とは相反する4 っの「幸い」が語られています。「貧しい人々」「今飢えている人々」「今悲しんでいる人々」「憎ま れ、わたしの名のために追い出される」・・・これは私たちからはどう見ても「欠乏」です。また、こ こでは4つの「不幸jも語られています。「富んでいるあなた方」「今満腹している人々」・・・これ は、貧しくなければならない、という教えなのでしょうか。財産を放棄しなければならない、とい う教えなのでしょうか。

 確かにルカ福音書は、金持ちには厳しい福音書でもありますが、ここでは単純な財産放棄を語ら れているのではないと思います。「富んでいること」「満腹していること」「皆からほめられること」 に対し、わたしたちが注意を払わなければならない側面もあることは確かです。また、私たちは安 定して、安心で、心配事がない状態を幸福とし、それを求めます。しかししばしばそれは執着にな り、また失うことへの恐れになる。しかしその結果、わたしたちはしばしば自分の持っているもの を守るために、自己完結した世界で生きるようになってしまいますし、またその中で持っているも のが失われるときに、わたしたちは不幸だと考えます。

 しかし、このとき、イエス様の周りに集まってきた人は「イエスの教えを聞くため、また病気を いやしていただくために集まってきた」人々でした。多くの欠乏を抱えて生きていた人たちでした。 当時貧しいこと、病気にかかることは前世や現世の罪の結果であり、不幸で神の救いから遠いこと だ、とみなされていました。そこに向かってイエスさまは「いや、そうではない、あんたたちは確 かに神から祝福されている」と力強く語られたのです。

 この説教は一般に「平地の説教」と言われます。イエス様はこの言葉を「平らなところに立って」 語られました。いや、「目を上げ弟子たちを見て」と記されていますから、むしろ低いところに立っ ておられるのです。神さまが私たちの救いとして送ってくださったイエス様が、私たちの只中に立 っておられる。
 「祝福されよ、主に信頼する人は。
 主がその人のよりどころとなられる。・・・
 干ばつの年にも憂いがなく
 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:8)
 聖書は、神に信頼する人には干ばつが無いといっているのではありません。干ばつの中で、神の恵みが離れることなく寄り添っ ている、そのことを語ります。干ばつであっても神の恵みは離れず自分とともにある。そのことに 信頼できる人は幸いです。そしてそのことに信頼していいのだと、イエス様はご自身が私たちの真 ん中に立つことによって、わたしたちに日に見えない愛を示してくださったのです。そのことに信頼 することから、わたしたちはまた歩みを続けていきたいのです。

あなたを招きたい

2016年1月24日(日)顕現節第4主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書5:1〜11
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
 イエス様が最初に招いた弟子は、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の漁師だった、そのことを、4つ の福音書は口をそろえて語ります。しかも、当時の常識としては、弟子の方が師匠を選んで師事す るのが当たり前なのに、今日の聖書の個所を見る限り、シモン・ぺトロと他の二人は、もともとそ の気があったように見えません。むしろ彼は、イエスに群衆が群がっているのに、そこに集まって くるでもなく、網の手入れをしています。

 なのに、たまたまその船にイエス様が目をとめて、乗り込んでこられます。群衆が押し寄せてき たので、少し岸から離れたところで、落ち着いて話をするためです。シモンが船の中で教えをどの ように聞いていたか、その様子は書かれていません。しかしあまり集中して聞いてはいなかっただ ろうし、特に自分にかかわりがあるように思えなかったかもしれません。それより彼は早く帰って 休みたかったのではないかと思うのです。

 なのに、舟にいきなり乗り込んできたその先生は、話し終わったら「漕ぎ出して、網を降ろして みなさい」と、こっちの仕事にまで口出してくる。「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、 何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」このぺトロの言葉には、 素人が何を言っているんだ、というそんなニュアンスも感じ取れます。「そんなに言うなら仕方な い、おろしましょう、とれなくても文句言わないでくださいよ」というような感じかもしれません。

 結果として、ぺトロと仲間の船は、とれた魚で沈みそうになります。そしてその結果に驚き、お それ、イエス様から離れようとするシモンに対して、イエス様は「あなたを人間をとる漁師にしよ う」、あなたをわたしの弟子として招きたい、と言われるのです。ぺトロにとってそれはまさに思 いがけない出来事でした。疑い半分で下ろした網だったけれど、それでもそんな自分に、神の出来 事が起こった。それどころか、こんな自分を招きたい、と言われたのです。

 そのイエス様の恵みを知ったシモンにとって「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」、こ の言葉は、また新しい意味を持ってきます。夜通し苦労しても、思うように行かないときがある、 もう何も新しいものは生まれない、と思えるときがある。もう一歩も前に進めない、と思えるとき がある。しかし、他ならぬあなたのお言葉ですから、私にこんな大きなことをなしとげてくださっ た、そのあなたが、そうおっしやるのなら。きっとそこで、何か新しいことが起こるはず。その希 望によって、わたしたちも網を降ろしていくものでありたいのです。

自由の知らせ

2016年1月17日(日)待降節第3主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書4:16〜32
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
 「ナザレで受け入れられない」という小見出しがつけられています。この小見出しは聖書原典に ついているわけではなく、翻訳される際につけられたものではありますが、けれども今日の出来事、 ルカ福音書において、イエス様が宣教の一言目を語られたときにそこで何が起こったか、そのこと を端的に表しているといえるでしょう。

 イエスさまが会堂で読まれたのは、イザヤ書61章のみことばだった。これは「主の恵みの年」 旧約聖書においてすべてが解放され、様々な負債が帳消しになる50年に一度の「ヨベルの年」と いう習慣を念頭に語られた聖書の預言です。神の決定的な救いが来る日にはこうなる、というので す。そしてイエスさまはそれは「今日、実現した」と宣言されました。神の救いはあなたたちの中 で現実に始まっている。これはイエス様をとおした、神様からの救いの宣言です。その場にいたど れくらいの人が本当に理解したかはわかりませんが、少なくともナザレの人にとってはこれはとて も恵み深い言葉だと感じられました。しかし、しかしイエスはそれをよしとは受け取られない。イ エスはこう言われます。「お前たちは『このナザレに帰ってくる前にいたカファルナウムでいろん な奇跡を行ったそうだが、故郷のここでもやってくれ』というに違いない。だが、かつて神の恵み は神の民イスラエルではなく、異邦人に与えられた」。

 イエス様が読まれた聖書個所には続きがありました。「…つながれている人に解放を告知させる ために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される年を告知して…」(イザヤ書61章)と続く。 旧約の民にとって、神の救いの時というのは、自分たちが救われると同時に、自分 たち以外のものに神が報復をされるときでもありました。しかし、イエスはそこを読まれない。そ れどころかイエス様は旧約聖書の中においても、異邦人が救いにあずかった例があるのだと、その 個所を引き合いに出してメッセージを語られた。それどころか、「身内であるあなたたちのところ ではわたしは奇跡は行わないよ」というようなことまで言われたのです。

 あなたたちは救いを望んでいる。しかしそれと同時に自分たち以外のものに神が報復されること を望んでいる。だが、神の恵みはそのように狭いものではない。それを超えて大きなものだ。その メッセージを、私たちはなかなか受け入れることができず、そのメッセージを拒絶する。そこにわ たしたちの弱さがあります。そして人々は、わたしたちは神のメッセージを受け入れるのではなく、 神様の福音や他者を拒絶することをしばしば選ぶのです。

 しかし、そこに福音が語られます。イエスはご自分を崖から突き落とそうとする人々の間をすり 抜けて、立ち去られた。当時神の救いから遠いとされていた異邦人、病人、罪人に救いをもたらす ために。人間はイエスを、神の福音を壊そうとする。しかし、それをすり抜けるようにして、神の 出来事は実現していくのです。わたしたちがどんなに弱くて、愚かで、かたくなで、どうしようも なくても、罪深いわたしたちの間をすり抜けるようにして実現していく、神の出来事がある。わた したちは弱く、罪深い、しかしそのわたしたちに対して、外から訪れる恵みに、わたしたちは希望 をもっていていていいのです。

あたらしい道を行く

2016年1月3日(日)顕現主日礼拝説教要旨 マタイによる福音書2:1〜12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 まだ、ルーテル教会はクリスマスを祝っています。クリスマスは、12月24日の日没から、1月6日(厳密にいうと1月5日の日没)までです。この1月6日に祝うべきできごとを、(日本ではその日は休みになりませんので)6日にいちばん近い日曜日である今日、祝います。イエス様の降誕後、まずその夜のうちに羊飼いたちが拝みに来る。そして少し遅れて、東の国の占星術の博士たちがイエス様を拝みにたどりついた。今日はその出来事を祝う日です。

 この、東の国の博士たちの訪問自体は、よく知られている物語だと思います。しかしわたしはこの出来事の中で、博士たちの礼拝以上に、まずその知らせを受けた当時のユダヤの王、ヘロデ王の反応の方が強く印象に残ります。「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた」(マタイ2章3節)ヘロデ王は、救い主の誕生を喜べなかったのです。確かに考えればわかります、自分以外の王が誕生したとしたら、自分のもっている権力が奪われるかもしれない、と考えたのでしょう。

 このヘロデ王は、聖書の中の印象で語られることが多いので極悪非道な王様というイメージが強いのですが、実際のヘロデ王は実は初めから残酷な王様だったわけではありませんでした。むしろ彼ははじめはよい政治をしようとしていたといいます。しかし彼は正当なユダヤ王家の血筋ではなく、王家の王女と結婚して、王の座に就いた人でした。それでそのうちに、疑いの心が大きくなり、自分の王位を脅かすおそれがあるものは妻や子供であっても殺害していったのだということです。

 彼の疑いの心が大きくなったのは、自分が立派な血筋ではないという不安や恐れからくるものであったと、想像ができます。ヘロデは大きかったわけではなく、むしろ自分の小ささに怯えていた人だったのでしょう。そのようなヘロデはわたしたちの中にも確かにいるのです。

 ヘロデは、幼子の産まれた場所を突き止め、排除しようとしました。しかしもし、それが成功していたとしても、ヘロデはおそらく楽にはならなかったでしょう。わたしたちもそうです。自分を脅かすものを排除していったところで、わたしたちは楽になるわけではありません。ある人がこのようなことを言っていました。必要なのは「自分の中にヘロデのような人間がいることを認めて、そのヘロデと和解すること」だと。自分は何も持っていない。自分には何の力もない。自分の弱さや小ささを認めることは、時につらいことです。しかし、そこに語られるみことばがある。

 「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイ2:6、もとは旧約聖書・ミカ書5:1の引用)。あなたは自分で小さいと思っているし、周りからもそう思われているかもしれない。しかし、そこに救い主がやってこられるのだ、と。人の眼差しと神様の眼差しはちがう、人はあなたをちっぽけな存在だというかもしれないが、神はそうではないのだと。

 この三人の博士たちは、ヘロデのところからきて、そして「別の道をとおって」帰っていきました。この「道」というのは、「生き方」の象徴でもあります。わたしたちは、ヘロデのところからくる。そして幼子に出会って「喜びにあふれ」、そして「別の道を通って」帰っていくのです。イエス様といま、出会ったわたしたちはもう、自分の中のヘロデから解放されていい。イエス様は、この世で最も小さなところに生まれてくださった。その喜びをいただいて、わたしたちもヘロデのような生き方から、違う生き方へと押し出されていけたら、と思うのです。

説教(2015年)

いのち満たされるとき

2015年12月27日(日) 降誕後主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書2:22〜40
さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 改めて、クリスマスおめでとうございます。日本の暦では、クリスマスは25日でもう終わったように思われているかもしれませんが、クリスマスは「終わった」わけではありません。待降節が終わって、降誕節が始まった、つまりクリスマスは終わったのではなく、始まったのです。

 キリスト教の暦は、クリスマスでもイースター(復活祭)でも、前の準備をする時期だけではなく、降誕後の期間、復活後の期間、というように、そのあとの余韻を大切にします。クリスマスは、イエス様の誕生を祝って、騒いで終わりという祭りではありません。クリスマスの後にこそわたしたちは、ああ、本当にイエス様は生まれてくださったんだ、ということを改めて味わうのです。

 今日の日課は、イエスさまが生まれて40日後、決まりに従ってマリアとヨセフが赤ちゃんイエス様を連れて神殿に参ったときに起こったことだとされています。その神殿の境内で、シメオンとアンナという人がイエスさまと出会う。この人たちはどちらも「イスラエルの救いを待ち望んでいた」人でした。神の民とされた古代イスラエルが神への背きによって失った、神さまとの関係がもう一度回復され、慰められることを、シメオンは待ち望んでいた。この人が、聖霊の導きにより、「この赤ちゃんこそが、ずっと待っていた救い主だ」と知らされ、神殿の境内にやってくる。そして赤ちゃんイエス様を腕に抱き、賛歌を歌うのです。

 「今こそ私は主の救いをみました」・・・毎週礼拝の最後に歌う、「ヌンクディミティス」は、このシメオンの賛歌です。わたしたちは毎週礼拝で神さまの救いの宣言を聞く。その宣言を聞いて「そうです、わたしは今日、救いをみました、だから安心してここを去ることができます」と歌うのが、「ヌンクディミティス」です。しかし、シメオンは「救いを見た」と歌いますが、彼とイスラエルの置かれた状況は何も変わっていません。「お言葉どおり僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉には、シメオンがこれからイエスの救いの完成を見ずに「この世を去る」ことになることが示されています。腕の中に抱いているのは無力な、まだ何の力もない赤ん坊です。

 シメオンもアンナも、イエスの十字架、復活という神の決定的な救いの出来事は見ませんでした。…しかし、彼らは希望を抱いて去ります。彼らはこれからいなくなり、自分たちが待っていた救いの出来事の完成は見ることができない。けれども彼らは、自分の腕の中に希望を迎え入れたのです。

 クリスマスイブに、洗礼式があり、ひとりの姉妹がクリスチャンとしての歩みを始められました。その洗礼式の式文の中にこのような皆さんへの勧めの言葉があります。「この姉妹の中で始まった神の御業が、完成へと導かれるように祈ってください」と。洗礼はゴールではなく、スタートです。洗礼を受けても、わたしたちは弱いままかもしれない。しかし、その私たちの中に、キリストが宿っていて、共に歩んでくださる、そこに希望があるのです。

 クリスマスの希望もそうです。わたしたちの世界はまだ平和ではない。キリストを迎えたはずのに何でこんなことが、と思うことがたくさん起こる。しかし、この世界はすでに、中心にイエス様をいただいている世界なのです。わたしたちは、クリスマス以降、この世界はすでに、イエス様が来てくださった世界であることを、味わい、それに信頼して歩むのです。クリスマスの時に、この世界の中で、私たちの中で、神の愛の歩みが始まった。そのことを確認するのが、このクリスマスの季節です。喜びを新たに、また新しい年へと歩み出したいのです。

神の愛、世に来たる

2015年12月20日(日)降誕主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書1:1〜14
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 クリスマス、おめでとうございます。厳密にいうと、まだ待降節第4主日であって、クリスマス まではまだ少し間がありますが、日本のカレンダーでは本来の降誕祭である12月25日が祝日に はなっておらず礼拝に来られる人が限られてしまうので、この直前の日曜日に、多くの教会ではク リスマスのメッセージを聞いて、お祝いをします。

 とはいえ今日読まれたヨハネ福音書の日課にはマリア、ヨセフ、羊飼い、東方の博士たち、星、 天使、馬小屋、飼い葉おけ、といった、クリスマスにつきもののモチーフが全く出てこない(ちな みにサンタは聖書のどこを読んでも出てきません)。しかしこの「初 めに言があった…」で始まる、ちょっと不思議な個所は、マリアもヨセフも飼い葉桶も出てきませ んが、これもまたイエスさまの誕生の意味を表している個所なのです。最後の14節にはこう記さ れています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。イエ スの誕生は、「神の言の受肉(肉体を受けてこの世に宿ること)」だというのです。

 「言」と訳してありますが、これはもともとのギリシア語で「ロゴス」といい、各国で翻訳に非 常に苦労されている言葉です。ただ単に「言葉」という意味では十分ではなく、「永遠の知恵」「神 の叡知」、ギリシャ哲学において、この宇宙の秩序を保っている神的存在を現します。日本に現存 する中で最も古い日本語聖書であるギュツラフ訳「約翰福音之傳」(ヨハネ福音書)はこの箇所を こう訳しました。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノ カシコイモノ ゴクラクト トモニ ゴザル、コノ カシコイモノワ ゴタラク」。「カシコイ」とは智恵が優れているという意味で使わ れることがありますが、「畏れ多くて口にできないほど尊い」「口では言い表せないほどありがたい」 ものをいうときにも使われました。本来のギリシア哲学の考え方では、ロゴスは完全な神の知恵で あって、永遠で、変わることはありません。しかしヨハネはこういうのです。永遠に変わらない、 変わらなくていいはずのロゴス、それがなぜか「肉となって、わたしたちの間に宿られた」。

 神の言が肉体をもって、わたしたちのこの世界の中に宿られた。この、肉体を持って生きるわた したちの中にやってこられた。肉体には限界があります。わたしたちはみな、肉体的な限界、人と しての限界を抱えて生きています。みんな不完全であって、欠点だらけであって、いろんな重荷を 抱えている。何を好き好んで、永遠の存在が「肉となってわたしたちの間に宿られた」のか。

 山浦玄嗣さんという方はこの「ロゴス」を「神の思い」と訳しました。イエスさまは「神の思い」 だったんだ、と。イエスさまには、イエスさまを送ってくださった「神の思い」があらわれている。 ですから、神さまがわたしたちをどう思っておられるかが、イエスさまを見ればわかるのです。イ エスさまの降誕だけではなくて、その後のイエスさまの歩み、イエスさまが、弱さや限界を抱えた 人々の間を歩まれ、最後にはわたしたちのためにすべてをささげつくされたこと。そこにわたした ちへの神の思いがある、というのです。「それゆえクリスマスの証言は、すべての人間に対して次 のように語る。<あなたがたは受け入れられている。神はあなた方をさげすむようなことはせず、 あなたがたすべての肉と血をそのまま受け入れたのだ>と。」(デイートリッヒ・ボンヘッファー)
 飼い葉おけ、わたしたち自身だという。ボロボロで冷たい飼い葉おけ、でもそこを温めるために イエス様は来てくださったんだと。

備えて待つ喜び

2015年12月6日(日)待降節第2主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書3:1〜6
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
 イエス様の降誕を祝うクリスマスを待つ、待降節の第二主日を迎えています。今日の日課では、 イエス様の先触れとして現れたとされている、洗礼者ヨハネのできごとを読みました。私たちの教 会の日課では、まだ赤ちやんイエス様は登場されません。しかし、イエス様の姿はまだ見えないけ れど、確かにクリスマスのときは少しずつ近づいている。この洗礼者ヨハネ、ルカ福音書では特に イエス様より三か月先に生まれたイエス様の親戚であり、その誕生もまた、主の救いのご計画の中 にあったことが1章に記されていま。はっきりとは見えないけれど、神の救いは確かに近づいて いる。そのようなほのかな期待を感じさせる場面でもあります。

 今日の福音書はこのような言葉で始まります。「皇帝ティベリアスの治世の第十五年、ポンティ オ・ピラトがユダヤの総督…(中略)…、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言 葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。これは、旧約聖書にみられる典型的な預言者の紹介 の言葉です。ヨハネは預言者の一人である。ヨハネに神様がメッセージを預けて、私たちに遣わ された。そしてこの時代、ユダヤに預言者が現れたのは実におよそ400年ぶりのことでした。聖書 の理解によれば、神の民イスラエルは神様から離れて好き勝手なことをし始めてしまったから、神 の民は神に見捨てられたのだ、とされています。しかし主はそこに救い主を送ると約束されていま したが、マラキの預言から400年間、「見よ、わたしはすぐに来る」という預言の言葉から、イス ラエルは神の預言をいただくことができなかった。人々はおそらく預言が何かすら忘れていた。し かしそこに、神の言葉が400年ぶりにくだったのです。その新約の預言者ヨハネは旧約聖書の預言 者イザヤの言葉を引用しました。これはイザヤ書の言葉の中でも「第ニイザヤjと呼ばれるもので、 ユダヤの人々がバビロンに捕囚として連れ去られた捕囚時代に静られたものだとされています。そ こで語られているのは、神を見失った民への慰めです。「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたた ちの神は言われる。エルサレムの心に寄りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の 咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(イザヤ40:1-2)

 そして、このヨハネに神の言葉が下ったのは「荒れ野」でした。荒れ野、荒涼とした不毛の土地、 というのは日本人にはなかなか具体的なイメージがしにくい場所ですが、旧約において荒れ野は 特別な意味を持ちます。そこは過酷な世界です。また、旧約の民は、指導者モーセによってエジプ トの奴隷状態から解放されたのち、荒れ野を四十年さまよいました。そしてその中でイスラエルの 民は偶像崇拝に走り、神との関係を見失ってしまった、そのような場所でもあります。

 しかし、その荒れ野に今、主が来られるというのです。何百年も神の声が絶えたところに神の恵 みがやってくる。「わたしたちは自分の現実以外のところで(中略)神と出会おうとしま。し かし神はむしろ、わたしたちの荒れ野を通ってわたしたちのところに来られようとします」(アン セルム・グリューン「クリスマスの黙想」キリスト新聞社)。たとえ荒れ野に見えても、何もない不 毛の土地と思えても、しかしそこに神の恵みがやってくるのです。わたしたちが豊かだからではな く、むしろ欠けているから、何も持たないから、わたしたちのところにやってきて、私たちの中で 生きることを決意してくださった神がおられるのです。その恵みを知り、神の愛を迎え入れること が、大切なクリスマスの準備です。主に心を向け、クリスマスの準備を進めてまいりましょう。

救いがあなたにやって<る

2015年11月29日(日)待降節第1主日説教要旨 ルカによる福音書19章28〜40節
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
 教会の暦は、新しい一年の始まり、イエス様のお生まれを待つ「待降節(アドベント)」を迎え ました。教会でも少しずつ、イエス様を迎える準備をする季節であり、世間と同じく、どこかワク ワクと楽しい季節でもあります。しかし、クリスマスというのは、悲しみや苦しみの中にあるとき には、かえって自分だけが置いてきぼりにされたような、そのような寂しさを、いつもよりも強く 感じる季節かもしれません。しかし、クリスマスの本質は決して表面的なにぎやかさの中にではな くて、もっと深いところにあるのだということを、この待降飾の始まりに確認したいのです。

 今日の福音書の日課は、毎年この待降節第一主日に読まれるイエス様の「エルサレム入城」です。 神の都とされていたエルサレムに、神の子・イエスさまが来る。長い間、砕かれ、いたみ、苦しみ、 救われる日を待ち続けていたユダヤに、本当の主人、王が来る。人々の期待も最高潮に高まってい ます。しかし、実はこのとき、イエス様が向かっておられたのは、王座ではなく十字架でした。

 イエスさまに従い、また大喜びで迎えた人たちは、「天には平和、いと高きところには栄光」と 叫びます。この言葉は、イエス様がお生まれになったとき、野原で野宿する羊飼いたちに天使がお 告げを持ってきたときに歌った歌と似ています(ルカ2章14節)。しかし、イエス様が生まれたとき の天使の言葉は「天には栄光、地には平和」、ここだけが異なっています。

 人々は高いところを見上げていますが、しかし神のみ使いは、いや「地に平和」なのだと歌い ます。神の恵みが届かないように思える地上に、神の平和、神の恵みが来る。それがイエス様の訪 れの意味なのだと。主イエスの入城に伴う弟子たちの歓呼の声に、「弟子たちを黙らせてください」 というファリサイ派の人々に、主イエスはこういわれました。「言っておくが、もしこの人たちが 黙れば、石が叫びだすj。これは、イエスさまによる神さまの救いの出来事は、決して止められな い、ということです。人間の罪が神の出来事を妨害しようとしても、神の救いの業をとめることは できない。そのような圧倒的な力をもって、イエス様はわたしたちのところへとやってきてくださ るのです。

 恵みが自分のところまで届かないように思えるときがあります。世間のクリスマスの喜びが、自 分に関係ないように思える時があります。あるいは、世界の中で、神の恵みが届いていないように 思われるところ、どうしようもないように思える現実があります。しかし、神の恵みは必ずそこま で届く。十字架という、底の底までイエス様は降られた、そこに、本当のクリスマスの希望や喜び が、そのような現実の中にいるもののためにあるのです。いろんな妨げるものがあるとしても、わ たしのところまで恵みなんか届かない、という現実があるとしても、しかしそれを超えて、必 ず神さまの御心は私たちのもとへと届くのです。それを分かち合うクリスマスでありたい。

 わたしたちのこの世界にとどまるために、キリストは生まれてくださった。「クリスマスは、神 愛実行の記念日なり」(内村鑑三「クリスマスの教訓」)。私たちのどうしようもない現実の中に、希 望なんてないとあきらめるところに、イエス様は必ずやってきてくださいます。そのことを望み、 また分かち合うクリスマスを迎えたいのです。

神に喜ばれるものは?

2015年11月22日(日)聖霊降臨後第25主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書12:41〜44
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
 レプトン銅貨とは、当時の最小の単位の硬貨です。当時の労働者の1日の貸金である、1デナ リオンの128分の1だそうですから、現在でいうなら、2レプトンで120〜150円くらい、という ところでしょうか。当時の賽銭箱は、ホルンのような形をしていて、お金を入れると音がする仕組 みになっていたといいます。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とありますから、大勢の人が 大きな音を立てながら献金していたのでしょう。それに比べると、このひとりのやもめ(寡婦、夫 を失った女性)が銅貨2枚をささげたときの音は小さかっただろう、と思います。

 しかし、イエス様は、この女性の献げものを「この人は誰よりもたくさん入れた」と、弟子たち に向かって語られました。献金は金額ではないということでしょうか。パーセンテージの問題でし ょぅか。彼女が100%をささげたように、精一杯、生活費のぎりぎりまで献金しなさい、と言われ ているのでしょうか。もちろん、ささげるときの心構えとして、「自分の生活費を差し引いて余っ たからではなくj、「まず自分の持っているものの中から良いものを神さまにおささげする」それは 大切なことですし、できるだけそうあることができたら、と思います。しかし、わたしたちが福音 としてこのメッセージを開くときに、ここでわたしたちは、このやもめがどうしたか、ではなく、 イエス様はどうなさったか、ということを受け取りたいのです。

 イエス様は献金箱の「向かい側」に座っておられました。私たちとは違うところから、ささげる 私たちとは反対側、いわば神さまの側から、イエス様は見ておられる。内側の男子の庭におられた のだろうか、とにかく献金をささげる側とは反対側から見ておられる。そしてそのイエス様は、人々 の献金の中から、この、おそらく最も少なくひそやかに、音もなくささげられたであろう彼女のさ さげものに目を止めて、受け入れられた。イエス様は彼女の存在を受け入れられたのです。

 彼女は「生活費のすべて」(いのちのすべて)をささげた、と主は言われます。「生活費全部を」、 もともとの言葉は生活、いのちそのものを意味する言葉です。日々のいのち。日々の生活、いのち そのものを。そこに彼女のどのような祈りがあったかは、記されていません。けれどもそのレプト ン銅貨の中には、彼女の祈りがある。神への願いがある。信頼がある。たった2枚のレプトン銅貨、 それ自身ではほとんど役に立たない、その2枚の銅貨を、しかし彼女にとっては日々の生活、命そ のものであったものを、主は最も大きなささげものであると受けてくださるのです。

 神さまが見てくださる、そのことに信頼して、生活すべてを神さまに用いていただ。礼拝の中 の「奉献」は、単にお金をささげるだけではなく、お金と共にわたしたち自身をささげるのだと、 教会の信仰は伝えます。主が見ていてくださる、受け入れてくださる。どんなに小さいと思えるも のでも、しかし心を込めてささげる…それは、教会の礼拝だけではなく、わたしたちが生活の中で 心を込めて何事かを行うときに起こることです。小さいかもしれない、ほんの少しかもしれない。 しかし主はその中にある思いを心から喜び、受けてくださいます。

悲しむ人は慰められる

2015年11月1日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝説教要旨 マタイによる福音書5:1〜12
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 「家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり 愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき さはれ(しかし)天に一人を増しぬ 清められ 救はれ 全うせられしもの一人を」(サラ・ゲ ラルデイナ・ストック「天に一人を増しぬ」植村正久訳より)

 今日は全聖徒主日の礼拝を守っています。天に召された兄弟姉妹が、イエス様のところで永遠の 平安を得ておられる。わたしたちの中には悲しみや寂しさがあります。しかしそれと同時に、この 愛する方々のことをあなたにお任せします、あなたにお任せしていれば大丈夫ですね、という不恩 義な安心感もあるように思います。さかのぼると、4世紀ごろからこの日は殉教者と諸聖人の日、 として礼拝されていたようです。そしてその際に、このマタイ5章、いわゆる山上の説教の始まり の部分であるマタイ5:1〜12、「真の幸い」「天上八福jなどと言われる個所が読まれてきたのはや はり伝統的に教会がこのとき、殉教、迫害を受けて召天した人々を覚えてきたからなのでしょう。

 この個所は、殉教の勧めではありません。「こうならねば幸せにはなれない」というようなもの でもありません。イエス様がこれを語られたのはいったい誰に対してか。「イエスはこの群衆を見 て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、 教えられた。」直前にはこうあります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む 者、悪霊に取りつかれたもの、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、こ れらの人々を癒された」。彼らに語られた言葉です。これは、今まさに現実を生きている者たちへ の、幸いの宣言なのです。

 心の貧しい人たち、心が満たされず飢え乾いている人たち、あなたたちは幸いだ。あなたにこそ、 今まさに現実を生きるあなたにこそ、神の祝福があるからだ。あなたにこそ、主は目を注いでいる からだ。イエス様は、そう私たちに語ってくださるのです。そしてイエス様ご自身が、十字架から の復活という形で、この世の苦しみや悲しみ、私たちは目に見える現実の中にこそ働く、神の恵み をみるのです。

 「天に一人を増しぬ/曇りし日もこの一念に輝かん。/感謝賛美の題目更に加われり。/われら の霊魂を天の故郷に引き揚ぐる鎖の環/さらにひとつの輪を加えられしなり。/家には一人を増し ぬ、/分かるることの絶えてなき家に/一人も失はるることなかるべき家に/主イエスよ 天の家 庭に君と共に座すべき席を われら全てにも与えたまえ」(前掲「天に一人を増しぬ」最終連)。 私たちの生きる現実の中にあって、しかしこれは神さまから見捨てられているのではなく、神の恵 みの中にある現実である。先に召された兄弟姉妹の歩みの中に、わたしたちはイエス様と共にある その現実、その恵みを確かに見ることができるのです。

イエスのまなざし

2015年10月11日(日)聖霊降臨後第21主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書10:17〜31
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」想像すると滑稽です らある光景ですが、しかし、とても厳しい、しり込みをしてしまうような言葉です。ここでイエス 様がおっしやつているのは「金持ちが神の国に入るのはほぼ不可能に近い」ということです。

 しかし、今日イエス様のもとにやってきて永遠の命を問うたこの「ある人」は真剣にイエス様 に救いを求めていたのです。「走り寄り、ひぎまずく」。そしてイエス様を「善い先生」と呼んで、 真剣にイエス様を手本として、永遠の命の秘訣を得たいと願っていたのです。

 イエス様の答えはこうでした。「あなたは十戒を知っているはずだ。」あなたは聖書の中で最も大 切な掟を知っているだろう、それで十分なのだと。十戒とは神の民が、神さまと人間との関係の 中でどう生きたらよいのか、そのことを示すものでした。しかし彼はそれを幼いころから守ってき た。幼いころから、聖書で罪と教えられていることを犯さないように生きてきた、なのに救われて いるという実感がない。これまで、あれもこれもやってきた、しかし、救いの確信が得られない、 もっと他に何かできることはないのか、という思いであったのでしょうし、そう考えてしまうのが わたしたちかもしれません。

 そこにイエス様はこう言われるのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って、持って いるものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に昔を積むことになる。それから、 わたしに従いなさい」。そしてこの言葉に、この青年は悲しみながらイエス様の前を立ち去るので す。「金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」…この言葉に、弟子た ちは驚きました。彼は謙虚で、誠実です。そして、財産を持っています。当時はお金を持っている のはむしろ神様がその人を祝福してくださっているしるしだと考えられていました。天国ってそん なものなのか、やはり完璧に善行をした人でなければ入れないようなところなのか、そういう人し か受け入れないところなのか。

 しかし、欠けているただ一つのこと、人のためにすべてを使い尽くすこと。これは彼にだけでは なく、すべての人にとって欠けていることであり、そして同時に不可能なことです。言ってみれば、 彼だけではなく、この後で「自分はイエス様のためにすべてを捨てて従ってまいりました」という ベトロも、また今ここにいるわたしたちすべて、やはり自分の力で天国に入るには「ただ一つのこ と」が欠けているのです。財産を手放すというのは、自分の正しさを捨てる、ということではない でしょうか。自分の正しさのしるしを捨てる、ということです。自分の正しさ、持ち物、プライド、 能力、すべてを捨てる、いや、捨てざるを得なくなる。

 イエス様は言われました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるか らだ。」イエス様はここで、この人を見つめ、いつくしんでおられます。また、弟子たちのことも 見つめておられます。これは愛のまなざしです。人の弱さをご存知の上で、それでもその弱いわた したちのためにすべてを投げ出されるために十字架へと進まれる愛、わたしたちのためにすべてを 与えちくされる愛、その愛をもって見つめる瞳、まなざしです。自分は何も持たない。自分の中に ょいものは何もない。しかし、その自分を愛し、いつくしんでくださる神の、主イエスのまなざし がある。そのまなざしに気づき、その愛の中を生きる。そこから、すべてが始まるのです。

あなたに生きてほしいから

2015年10月4日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書9:38〜50
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。† 人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
 自分たちの仲間ではないのに、イエス様の名前を使って悪霊を追い払っている人がいた。「わた したちに従わないので、やめさせようとしました」。筆頭弟子のひとりであるヨハネは、このとき 自身満々でイエス様に報告しています。ほめてもらえることを期待したのかもしれません。しかし、 その期待とは裏腹に、イエス様はヨハネをとがめられます。

 「わたしたちに従わないので」…「イエス様に従わないので」ではない、ということに注目した いと思います。ここに潜んでいるのは自分を絶対化する危険です。自分たちだけが正しくて、ほ かの人たちは間違っている。ここに、私たちが陥りやすい危険があるのです。自分の信仰だけが 正しくて、自分たちのすることだけが正しく、ほかの人たちは間違っている。あの人たちのやり方 はよくない。」そのような考え方になることを、ときにはイエス様を勝手に自分の味方につけて、 そのようにほかの人たちをさばいてしまうことに、私たちは気を付けないといけません。

 イエス様は、このような例を示されます。「あなたがたに、一杯の水を差しだしてくれる人は、 誰でもその報いを受ける」たとえ自分たちの仲間ではなくても、わたしたちにそっと一杯の水を差 しだしてくれる人。その人がどんなに小さく見える人でも、わたしたちがどんなに小さく、つまら ないとみてしまっている人でも、けれども神様は確かにその人の働きを喜び、受け入れてくださっ ているんだ、とイエス様はおっしやつているのです。

 しかし、後半では、それに比して非常に厳しい言葉が語られていますム 「わたしを信じるこれら の小さな一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がは るかによい。」つまずくとは、本来「罠にかける」という意味です。誰かを罠にかける。神様を信 じてついていこうとする人を、つまずかせる。その人の信仰を失わせ、人が神様を信じて生きてい くのを妨げてしまう。しかし、わたしが、あなたがどんなに小さく扱っている人でも、あなたが大事 にしていない人でも、その人はイエス様にとってあなたの命と同じくらいの重みがあ る人である、とイエス様は言われているのです。

 43節以降では「もし片方の手があなたをつまずかせるなら」、とわたしたち自身のつまずきにつ いて寄られていますが、誰かをつまずかせること、それ自体がわたしのつまずきでもある、といえ るでしょう。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」。とても厳し い言葉です。_しかしこれは、「つまずかないあなたでいてほしい」「誰かをつまずかせることがない あなたでいてほしい」「人を傷つけることがないあなたでいてほしい」。これは何よりも「あなたに 生きてほしい」、あなたに滅びてほしくない。それはやはりこの小さくつまらない自分のことも、 イエス嫌がこの上なく大切にしてくださっている、だからこその言葉なのです。

 これはまさに「火」のような厳しい言葉です。しかし、その火によって、わたしたちの中にわた したちを引き締める、「塩」を与える言葉です。当時塩は、神様へのささげもめをきよめるために 添えられるものでもありました。イエス様は言われます。わたしたちがそれぞれに、イエス様の言 葉たよって、自分の内側に塩を持ち、日々、自分を整えていく。あなたに滅びてほしくない、とい う思い、人をつまずかせるあなたであってほしくない、というイエス様の思い、その思いを受け止 め、イエス様を見上げて歩んでいきたいのです。

主の御手に抱き上げられる

2015年9月27日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書9:30〜37
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 マルコによる福音書のテーマの一つに「弟子たちの無理解」があります。イエス様がこの地上に おいて活動をしておられるとき、誰もイエス様の御心を理解することが出来なかった。イエス様に いちばん近く、また、十字架と復活の後は初代キリスト教会のリーダーになった弟子たちすら、い え、弟子たちこそ、イエス様の心やイエス様に従うことの意味をまったく理解していなかった。そ のことが福音書には赤裸々に示されます。今回は、弟子たちが道すがら、「誰が一番偉いか」と議論 しあっていたことでした。イエス様はこの時、十字架にかかるためにエルサレムに向かう決意を 固めて、道を歩んでおられます。なのにそのイエス様の後ろで、弟子たちは「誰が偉いか」と議論をしているのです。

 日本人は一般に「謙遜」するといわれます。ですから、誰が偉いかと議論することには、あまり 縁がないかもしれません。しかし、私たちの場合、謙遜することによって、(意織的にしろ無意織 にしろ)、それによって自分をよく見せたいという意識が働いている。それはむしろこのいちばん 偉いものになりたい、という弟子たちの議論と大差ありません。やはり本質的にはわたしたちは、 誰かより自分をよく見せたい。自分は立派なんだぞ、と示したい。弟子たちと同じなのです。

 イエス様は、その弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべてのひ とに仕える者になりなさい」と言われます。これは見せかけの謙遜ではありません。相手のことを 思い、相手よりも後ろに立ち、相手のために命を使う態度です。そしてそのことを示すために、イ エス様はひとりの子どもの手を取り、真ん中に招き、抱き上げられました。真ん中に立たせ、抱き 上げる。この二つの言葉から、この小さな子供のことを、とても大切に扱っておられるイエス様の お姿をわたしたちは思い浮かべることが出来ます。子どもであったり、病気や障碍を抱えて生きて いる人であったり、当時の社会の中で小さくされていた人、隅に追いやられていた人を、イエス様 はいつも真ん中へと招き、その人を高められます。弟子たちは内向きに、自分たちの中で「誰が偉 いか」と議論をしています。しかし、イエス様はその彼らの心を、彼らの意殊の外側にいた、ひと りの小さなものに向かって開かれます。自分を大きくしよう、自分が偉くなろうとする歩みから、 小さな存在(それは社会的に小さくされている存在、というだけでなく、私たちにとっては自分が よく思っていない存在、つまらないと思っている存在のことだともいえるかもしれません。)を受け 入れ、大切にしていく歩みへと、私たちを招かれるのです。

 もちろん、その歩みは簡単なことではありません。しかし、そのわたしたちに先だって、すべて を差し出してくださった方がおられます。イエス様は、弟子たちのこのような会話をしり目に、エ ルサレムへと向かわれます。こんな、どうしようもない弟子たちの姿を見ながら、どうしようもな い人間の姿を見ながら、それでもイエス様はエルサレムに、神様の救いのご計画、すべての人を神 様の大切ないのちとして取り戻すための、十字架への歩みを進められるのです。しかもイエス様は 弟子をそのまま放っておかれるのではない。その大事な旅の途中でもわざわざ歩みを止めて、弟子 たちに向かい合い、大切なことを教えてくださるのです。イエス様の言われる「すべての人」「小 さな者」には弟子たちも、そしてこの私たちも含まれている。そのことを改めて心にとめて、イエ ス様についていく歩みを続けたいのです。

言い負かされるイエス

2015年9月6日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書7章24〜30節
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
 イエス様は、いつも公平で、困っている人を見捨ててはおかれない、必ず助けてくださる。そのようなイメージを持っている私たちからは、今日のマルコによる福音書のイエス様の姿が、信じられないかもしれません。イエス様が、病気で苦しむ娘を持つ一人の女性の願いを、退けている。

 「ギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」彼女は、ユダヤ人から見れば異邦人(外国人)でした。彼女には、汚れた霊に取り付かれた幼い娘がいた、とされています。何らかの難病に苦しむ娘を抱えていた。彼女はうわさに聞いたイエス様が自分たちの町に来ておられることを知り、必死でやってきてひれ伏し、懇願したのです。

 しかし、この時の主イエスの反応は、今読んでいるわたしたちも不思議に思うくらいに冷たいものです。「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはならない。」(27節)イエス様は彼女を子犬と呼びます。「犬」は、しばしばユダヤ人が異邦人を指して軽蔑的に使った言葉だったようです。もちろん、「犬」ではなく「子犬」では、少し意味合いが違ってきます。イエス様がイメージされているのは、野良犬ではなく、食卓の下で自分のご飯を待っている子犬です。しかしそれでも、食卓についているユダヤ人を子どもに、異邦人を小犬にたとえておられることには間違いがありません。小犬に、こどもより先にパンを与えるようなことはしないだろう、と、つまりあなたの番はまだだよ、というのです。イエス様には何か意図があってこんなことを言われたのだ、と擁護されることもあります。しかし、ここで彼女の願いが退けられていることは確かなのです。私たちが彼女であれば、これをどう受けとるでしょう。怒って、「もういいです!」というかもしれません。

 しかし、彼女は大胆です。「パンくずであってもおこぼれに預かれますよね。」確かにわたしは異邦人、犬かもしれません…彼女はここで、下手に出てはいても、決して卑屈ではありません。彼女は「主よ」と何度も呼びかけます。異邦人である彼女が「主よ」という、神の民であるユダヤ人からの、神さまへの呼びかけの言葉でイエス様を呼んでいる。あなたはわたしの主です、主人です。あなたはわたしの主人、あなたはわたしの(ひいては彼女の娘の)いのちに責任を持ってくださる方です。あなたの恵みはそれくらい大きい、あなたの恵みは食卓の下にいるわたしのところにも届くはずですよね、イエスさま、あなたはそれくらい大きなお方だと、わたしは信じます。

 そして、イエスさまはとうとう、一人の女性に心を動かされて、負けてくださるのです。ひとりの外国人女性の願いに、心を動かされてくださる。イエスは高い所から、ただわたしたちを見ているだけの存在ではなく、わたしたちと人格的に交わりを持ち、わたしたちに心を動かされてくださる方なのです。それが、この人の子として生きられたイエスという方のいのちの中に、あらわれている。今のわたしたちの祈りと人生も、このイエスとの交わりの中にあります。神さま、こんな小さなわたしですけど、小犬みたいなわたしですけど、でもあなたはそのわたしのことも心に留めてくださるはずですよね。わたしも恵みのおこぼれにあずかれるはずですよね。そんなふうにイエスさまと闘うことが、わたしたちには赦されています。その交わりの中にいることを信じて、イエスさまを求めていくものでありたいのです。

目を覚ませ、と呼びかける愛

2015年8月30日(日)聖霊降臨後第14主日説教要旨 マルコによる福音書7章1〜15節
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 今日の福音書の物語の中では、イエス様とその弟子たちが、ユダヤの「手を洗って食事をする」という習慣について、敵対者であるファリサイ派の人々から、非難を受けています。「手を洗わずに食事をする」、これは衛生上の問題ではありません。当時のユダヤ教の主流の考え方では、人は「けがれ」を避けることによって、きよいものとなり、神に救われるのにふさわしくなることが大切だ、と考えられていました。ですから、たとえば外出先で、「けがれ」とされるものに知らず知らずのうちに触れたかもしれないから、食事の前に手を清めるのです。

 しかし、彼らが言う「手を洗う」というのは、聖書にしるされていることではなく、「聖書にしるされていることを守るには、どのようにしたらよいか」が記されているもの、たとえば一つの掟があるときに、その掟についての「どこまでが守ったことになるのか?」「このようなケースの時はどうしたらいいのか?」という問いにこたえるために、宗教的指導者たちが掟を解釈して言い伝えてきたのが、ここで人の言い伝えと言われているものでした。

 「どこまで守れば守ったことになるのか?」確かにそう問いたくなる気持ちもわかります。そして、「これを守れば大丈夫」ということが分かれば、確かに安心できるかもしれません。しかし、そのときに私たちは「形だけ守れば大丈夫」というところに逃げてしまいやすいのです。

 イエス様はここで「コルバン」を例に挙げています。「父母を敬え」という掟がある。これは具体的には「親を養え」特に「親が年老いて働けなくなったとしても、大切にされなければならない」という意味を含んだおきてです。しかし、「神さまのためのささげもの、コルバンだ」といえば、それを行なわなくても済む、というのです。聖書の掟が本当に言っているのは、「神と人とを愛して生きること」なのに、信仰深いふりをしながら、身近なところをないがしろにすることで、「神の言葉を無にしてしまっている」「神さまの言葉を意味がないもののように扱ってしまっている」。ここでの律法学者たちは、「聖書にこう書いてあるのに」と聖書の言葉を引用しながら、しかしそれを人(イエスの弟子たち)を攻撃するために用いてしまっています。それは、神の言葉ですら自分たちの都合のいいように利用する、わたしたちみんなが持つ弱さであると思います。

 「外から人の中に入るものがその人を汚すのではなく、その人の心の中から出てくるものがその人を汚す」イエス様がおっしゃっているのは、ある意味では律法学者たちが言うよりも厳しいことです。形だけ守るのではなく、そのおきての本質を大切にする、ということです。聖書の掟はたくさんあるけれども、それは「神さまと人とを大切にして生きるため」のものである、その本質が大切にされなかったら、いくら形式だけ守っていても意味がない、というのです。

 この言葉の前に、わたしたちは砕かれます。神様の前に「よいこ」のな顔をしていても、本当はそうではない自分を見せつけられるからです。しかしここには、「本当に大切なものに気づいてほしい、形だけではなくて、聖書が言う心を大切にしてほしい」という神様からの愛があります。そのためにイエス様は、反対者である人たちをも、放っておかれるのではなく、徹底的に向かい合われました。この、少し厳しいイエス様の愛を、砕かれつつも受け止める者でありたいのです。

神はあなたを棄てない

2015年7月26日(日)聖霊降臨後第9主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書5章21-43節
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
 今日のマルコ福音書5章21節以下は、ヤイロという、ユダヤの会堂長の娘の蘇生という奇跡の物語に、25節から34節までの「十二年間も出血の止まらない」女性のいやしの物語が挟み込まれる形になっています。まず、ヤイロという人の娘が病気になり、ヤイロが自らイエス様のところに来て、娘のところに来てくれるようにと懇願する。当時の会堂は、イエス様をすでに敵視していたにもかかわらず、この人はイエスのところにやってくる。それほど彼は必死なのです。

 しかしその途中で、イエス様一行は思わぬ足止めを食らうことになります。一人の女性がイエス様に触れ、それをイエス様が探し始められたのです。彼女は十二年間(ヤイロの娘が十二歳ですから、ちょうどそれと同じだけの期間です)出血が止まらない病気、おそらく女性の婦人病の不正出血でした。彼女は十二年間その病気で苦しんでいる。

 「ひとりの女性がやってきて、イエスの服に触れた」起こった出来事はただこれだけのことですが、しかしそこには彼女の十二年間の苦しみが詰まっています。「多くの医者にかかったがひどく苦しめられ、全財産を使い果たし、何の効果もなく、ますます悪くなったのだが、その人がイエスのうわさを聞き、群衆に紛れてやってきて、後ろから彼の服に触れた」。しかも彼女の苦しみは、病気の苦しみだけではありません。出血をともなう病気は、その出血が止まるまでその人は「けがれている」とされていました。ですから、自分に触れることで人に「穢れ」をうつさないため、人前には出ることができないのです。ですからイエス様が気づいて彼女を探されたときに彼女がまず感じたのは「恐れ」でした。本当は自分はこんなところに出てきてはいけない存在で、ここにいてはいけない存在で、なのにこんな人ごみの中に出てきて、イエス様に触れてしまった。

 しかし、イエスは彼女を探しだしたのは、彼女を責めるためではありません。彼女が救われていることを、神さまから見れば彼女は汚れてなどいないことを、皆の前で宣言するためでした。顔を合わせて彼女に救いを宣言するため、イエスさまは彼女をご自分の前に招き、「娘よ」と呼びかけ、その思いを受け止め、向かい合ってくださったのです。

 しかしそうしているうちにヤイロの娘はなくなってしまう。このときのヤイロにとって、これは絶望です。その知らせを伝えに来た人も「もう亡くなってしまわれたのですから、来てくださっても何にもならないでしょう」といいます。それでもイエス様は娘のところへと向かっていきますが、その家にいる人たちももう娘が亡くなったものとして泣き騒いでいるし、イエス様が「娘は眠っているだけだ」というと、イエス様のことをあざ笑う。もう、絶望しかない。もう、すべてが終わって、ここから何も新しいものは生まれない。おそらくそこにいるすべての人がそう考えていました。けれどもそのような絶望、もう終わったと誰もが歩みを止めるようなところ、イエス様はそこへと入って行かれます。そしてイエス様はその娘の手を取り、そこから彼女を引き起こされるのです。

 どうしようもない現実、ひどい苦しみ、自分の中にはもう何もない、からっぽだ。けれどもそのあなたをそれでも神さまは棄てないのだと聖書は語ります。「主は決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」(哀歌)。この神の恵みが、今日、この物語を聞くわたしたちにも語られています。この二人の女性を救ったイエス様をとおして現れた神の愛は、決して尽きることがない。このみことばに励まされて、また新しい一週間を歩みたいのです。

解放の約束

2015年7月5日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書3章20-30節
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
 聖書の中のイエス様の大きな働きのひとつに「悪霊を追い出す」というものがあります。特にこのマルコ福音書では、このイエス様が「悪霊を追い出す」働きが、イエス様の働きの中でも特に大切なもののひとつとされているようです。  今日の福音書の出来事の中では、イエス様が、当時の都エルサレムからやってきた律法学者たちによって、「あの男の力は悪霊によるものだ、だからあんな奇跡ができるんだ」と誹謗中傷されています。ここで彼らはきちんとなんらかの証拠などがあってそう言っているわけではない。彼らは初めからもうイエスを断罪するつもりでいる。イエスが奇跡をおこなっている、その奇跡自体は認めざるを得ない、でもあいつを認めたくない、だからこそ、あの力は神ではなくて悪魔から来たものなんだ、と決めつけているのです。

 それに対してイエス様が反論されているのが、今日の「ベルゼブル論争」とタイトルが付けられているできごとです。悪霊、悪魔、汚れた霊…これらは私たちにはあまり実感として受け止めることが難しい概念です。そのようなものが存在することについても今の現代社会に生きるわたしたちには実感がないでしょうし、逆に、なんでもかんでも悪霊のせいにする、あれは悪魔つきだ、などという言葉で片づけるような信仰は、やはりそれはどこか違うだろうと言わざるを得ません。しかし、聖書に記されているような悪霊の存在を頭から否定する、というのも難しい。やはり、わたしたちを神さまから引き離そうとするもの、そのような力にわたしたちは出会うことがあるからです。

 第一日課の創世記は、有名なアダムとエバの物語。神さまが造った楽園に住んでいた最初の人間アダムとエバが、蛇にそそのかされて善悪の知識の実を食べ、楽園から追放されようとするところです。この蛇の目的は、悪いことをさせることではありません。そうではなく、神に背くことによって、アダムとエバが神さまの前に堂々と立てなくなること。その人が持つ神さまや人とのつながりを壊すこと、それがこの蛇の働きなのです。

 反対者たちは、イエス様の力は悪霊の力だ、と言い、イエス様はそれに反論されます。このイエス様の言葉の中に、イエス様が来られた意味、というものが込められている。イエスが来たのは、もちろん悪霊のかしらとしてなどというのではない、イエス様が来られたのは悪霊のかしらとして人を苦しめるためではなく、人を解放するため。「強い人をまず縛ってから、(家財道具を)奪い取る。」人を苦しめる者、人と神さまとの関係を壊そうとするもの、その人がその人らしく生きることを妨げる物からわたしたちを奪う、つまりご自分のものとして取り戻してくださるのがイエス様なのだということです。

 それは、イエス様がご自分を家に押し入る押し込み強盗にたとえておられるように、わたしたちを力強く神さまの元へと引き寄せる力です。そして実際に、イエス様はそうされたんだと、それが福音書に記されたイエス様のできごと、イエス様をとおしての、神さまの救いのご計画です。そしてそれはイエス様の十字架による死という、絶望的な出来事を越えて働く、パワフルな出来事でした。わたしたちを取り巻くもの、わたしたちの中にあるもの、それがどんなに神さまの救いを妨げるかに見えても、それをはるかに越えて、イエス様は強い力でわたしたちをご自分のものとして取り戻してくださる。そのことに私たちは信頼していてよいのです。

いのちを喜ぶ日

2015年6月21日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書2章23-27節
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
 今日の福音書の物語でのイエス様の弟子たちのふるまいが、反対者からとがめられたのは決して彼らが人の畑に勝手に入って麦を食べたから、ではありません。人の畑に入ってそこにあるものを食べることは、実は聖書の申命記23章23節にこう書いてあるのです。「隣人のブドウ畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べても良いが、かごに入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」。

 ですからここで、イエス様の反対者たちがイエス様の弟子たちの行為をとがめているのは、決して彼らが麦泥棒をしたとみなされたからではありません。この日が週に一度の特別な聖なる日、「安息日」だったことが問題だったのです。弟子たちがしたことが「労働」に当たるのだと、批判されているのです。旧約聖書の掟で安息日というのは「休んでも良い日」ではなく「仕事をしてはならない日」です。そのためにイスラエルでは、「どこまでが安息日にしてよいことか」という、規則を守るための規則がたくさんあります。けれどもそれにももちろん例外はありました。

 その例外として、イエス様はここで、ダビデの例を挙げて反論されているかのように見えます。しかし、この話を持ち出すのはおかしいのです。旧約聖書のサムエル記上21章によれば、このときダビデと一行は命を狙われ逃げている最中、空腹で自分も供のものも死んでしまう、というときでした(サムエル記上21章)。そのようないのちの緊急事態のときには、確かに律法違反をすることは許されているのです。しかし、それでもダビデ一行は、それなりのルールを守ってそれを食べたことが、サムエル記には記されています。しかし、このイエス様一行の様子を見ると、どうしてもお腹がすいて今にも死んでしまう、というようには見えないのです。ですから、彼らは明らかに律法違反をしている、と敵対者たちに上げ足を取られているのです。

 しかし、イエスさまはここで安息日の本質を問うておられるのです。「安息日はひとのために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27節)。なぜ安息日があるのか。よく知られているのは天地創造に由来するということでしょう。しかし、今日の申命記の日課を読むと、安息日が定められたのには、他の理由があったことがわかります。安息日を守ることで、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こ」す…安息日には、その家の奴隷たちも休みました。そしてそれは、あなたたちも昔は奴隷だったからだ、ということでした。あなたたちは昔エジプトで休みなく働かされてきた。あなたはそこから解放された感謝のしるしとして、週一回の安息を守り、あなたの奴隷たちも休ませなければならない・・・安息日は本来神の救いを、ともに喜ぶためのものなのです。

 わたしたち、「こうあらねばならない」という思いで、しばしば自分ががんじがらめになり、また人をも縛ります。そしていつの間にか、おきての真ん中にある大切なものから、遠くかけ離れてしまう。しかしそのわたしたちのために、イエスさまはそのいのちをかけてわたしたちのところにくだり、わたしたちに教え、ついには十字架の上でささげつくすことによって、私たちを罪から解放してくださいました。そのイエス様によって、わたしたちは自由にされているのです。わたしたちはその救いの恵みを受けたものとしてわたしたちは新しいいのち、いのちを共に喜ぶ日へと招かれています。この恵みを心に刻みたいのです。

あなたこそ、招かれる。

2015年6月7日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書2:13〜17
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 「徴税人」であったレビという人を、イエス様が招かれて、弟子にされたときの出来事です。収税所に座っていたレビをイエス様が見かけて声をかけ、レビはすぐに立ち上がってイエス様についていった。これは、1章においてイエス様の最初の弟子であるシモン・ペトロたちが召されたときの状況とよく似ている。ただしこのレビの場合は、彼の職業が徴税人であったことが、重要な意味を持っています。

 「徴税人」という職業は、当時のユダヤでは社会的な身分的としては最下層に近い、軽蔑される職業でした。それは彼らが支配者ローマ、あるいはローマの言いなりで融和政策をとるヘロデ・アンティパスの手先だったからです。宗教的に「けがれている」とされる異邦人の手先であることに加えて、自分たちを圧迫する支配者の手伝いという政治的な反発もあったでしょう。

 しかし、そのレビの家で、彼の仲間たちと、イエス様は食事の席についておられます。日本でも「同じ釜の飯を食う」、同じ志を持った仲間であることの表現として用いられます。「食事の席に着く」ということば、これは「横になる」という意味のギリシア語で、当時の地中海社会で行われていた宴会の形を示しています。低いテーブルに食べ物を置いて、それを囲んで寝そべって食べる。こんな無防備な姿をさらす食事形態ですから、当時食事をする、ということはおそらくいま私たちが考える以上に仲間であることの重要なしるしでした。

 おそらくその姿を周りから見ていた人たちの中には、ここで出てくるファリサイ派でなくともあまり好ましくない目で見ていた人がいたかもしれません。徴税人や罪びと、彼らを嫌い、避けていたのは「ファリサイ派の律法学者」だけではありません。いまここにいるわたしたちが、当時のその場所にいたとしたら、もしかすると私も彼らのことを嫌い、「なんでイエス様はあんな奴らと一緒に食事をするんだろう」と言っていたかもしれない、とも思います。われわれはそのようにして、自分の身をしばしば「正しい」方へと置いていることがあるのではないでしょうか。

 その私たちにイエス様は今日、この教えを語られます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これは、自分を「正しい」方へ置き、あるいは「正しい」か「正しくない」かで「あの人は救われる、あの人は救われない」と決めつけがちなわたしたちに対する挑戦です。わたしは罪びとを招くために来た。罪びととあなたが決めつけている人を招くために来た。イエス様の言葉はときにわたしたちに厳しく突き刺さります。

 しかし、ここには同時に希望があります。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。この「病人」とはもちろん第一義的にはその時代の差別や偏見、貧しさに苦しめられていた人々を意味するでしょうが、しかし、これはわたしたちのことでもあるのです。ときに人を偏り見ることしかできないわたしたち、しかし、そのように、自分こそが治療が必要な病人、そういった考え方から解放されることが必要な「病人」であることに気づかされるとき、同じ招きの言葉がわたしたちに向かっても、確かに語られているのです。「正しさ」にとらわれた「病人」であるわたしたち、しかしそのわたしたちもまた、同じように神さまの食卓に招かれている。そのイエス様の招きにこたえていくものでありたいのです。

恵みに背中を押されて

2015年5月31日(日)三位一体主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書3章1〜12節
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
 三位一体主日という、ちょうど教会歴では「クリスマス〜イースター〜ペンテコステ」(主の半年)と、「教会の信仰の成長の季節」(教会の半年)とを分ける礼拝になります。先週の聖霊降臨によって、神さまの救いの出来事が完成した。わたしたちのための救いが成就した。さあ、新しい季節に出て行こう、そのような意味合いの礼拝です。

 三位一体、これは非常にわかりにくいし、説明しにくい概念です。父なる神さま、子なるイエス・キリスト、そして慰め主である聖霊、これはバラバラ別々に働くのではない、私たちの救いのためのひとりの神の働きなのだ。一言で言うとこういうことだと思うのですが、それでもこれを私自身理解できているとは思いませんし、説明できるとも思いません。この「理解できない」概念というのは、わたしたちにしばしば不安をもたらします。

 今日の福音書は、ファリサイ派という宗教的一派に属し、ユダヤ人の議員でもあった、ニコデモという男性とイエスさまとの会話です。「ファリサイ派」というとイエスの論敵と言うイメージですが、ニコデモのようにイエス様に共感する人もいたようです。しかし、彼の中には迷いが見えます。まず彼は、闇にまぎれるようにして夜にやって来る。おおっぴらにはイエス様に会いに来る勇気はないのです。このイエスという人は何かが違う、本当に神のもとから来られたのだろう、従いたい、しかし自分は、自分の立場を棄てることができない…彼はイエス様との会話の中で「どうして年老いた者が新しく生まれることができるでしょうか」と言います。こんな自分が、どうして新しく生まれることなどできるでしょうか。母の胎内に戻って、すべてを忘れて新しくやり直せるならそうしたい、しかし、そんなことはありえない。ニコデモの葛藤が見えます。

 そのニコデモに、イエス様は不思議なことを語られます。「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」風は「聖霊」の象徴です。そして「新たに」とは「上から」という意味があります。上から、つまり神によって。あなたは自分が新しくなれないと考え葛藤している。しかしそのあなたに自由に吹いてきて、あなたを新しくする神の風があるのだ、とそういうのです。

 「父と、子と、聖霊のみ名によって」…ルーテル教会の礼拝はこの宣言で始まり、この宣言で終わります。私たちは弱く、変われない自分を抱えている。しかし、そのわたしたちを上から包み、新しくしてくださるのは自分の中から来るのではなく、上から来る恵みなのです。

 ニコデモは、この後、このヨハネ福音書にあと2回登場します。ニコデモが最後に登場するのは、イエス様が十字架にかかって死なれたとき、勇気を出してイエス様の遺体を引き取ることを申し出たのがこのニコデモともう一人の議員だったと聖書は記します。彼は確かにイエス様との出会いによって変えられました。しかしもしかすると十字架の下で、ニコデモは、自分にもう少し勇気があったら、もう少し早かったら、と悔やんだかもしれません。しかし、その先があるのです。彼が自分の限界を感じ、絶望した、その先に「復活」という、上からの究極の恵みが確かにあったのです。

 わたしたちは頑なで弱い存在である。にもかかわらず、この自分を、上からの恵みによって新しくしてくださる神の恵みがある、その恵みに押し出されて、私たちはこの世へ遣わされるのです。

踏みとどまって生きる

2015年5月17日(日)昇天主日礼拝説教要旨 ルカによる福音書24:44〜53
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
 教会の暦で「昇天主日」と言われる日曜日です。十字架の死から復活されて後、40日間、弟子たちにいろんな形で現れられたイエス様が、この地上を離れて天に昇って行かれる。そのことが、ルカ福音書の終わりと使徒言行録の初めに記されています。

 このルカ福音書と使徒言行録は同じ記者によって書かれた、いわゆる「続き物」の関係にあります。イエス様のこの地上でのいのちについて記されている福音書、そしてイエス様が天に昇られた後、残された弟子たちや初代教会の宣教の物語を記した使徒言行録。ちょうどこの両者をつなぐように、このイエス様の「昇天」というできごとがあるのです。

 イエス様は、地上を離れて天へと帰って行かれます。地上のこれからのことはお前たちに任せた、とでも言わんばかりに、去って行かれるのです。そしてイエス様が見えなくなった地上を、弟子たちは歩むことになります。使徒言行録ではこのとき弟子たちは、イエス様が昇って行かれた「天を見上げて立っていた」と記されています。

 聖書において「天」は神さまの領域、「地」はわたしたちが生きるこの世界を表します。イエス様は天へと去って行かれましたが、わたしたちは、この地上から離れて生きることはできません。いのちがある以上、わたしたちはこの地上から足を離して生きることなどできないということです。

 「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とイエス様は言われます。弟子たちを待っているのは、当時の都エルサレムです。そこはイエス様が十字架にかけられた場所です。弟子たちがイエス様に従いきれず、イエス様を見捨てて逃げた、自分たちの弱さの現れた場所でもあるのです。自分たちを圧迫しようとする力や勢力、また自分たちの罪や弱さがあふれる場所。そこであなたがたは、神の恵みを証する人として生きるのだと。そこにとどまるのは、勇気がいることです。

 しかし主はその場所においてこそ、苦しみや痛みを抱えながらとどまって生きるその場所で、父(神)が約束された高いところの力があなたたちを覆う、とそう言われるのです。それを聖書はわたしたちに降り力を与える神の霊、「聖霊」であると語ります。そしてイエス様は、弟子たちがこの世に留まって生きる為に彼らの心の目を開いて、聖書を悟ることができるようにしてくださったと語ります。まるで、旅路を行くための杖を与えるかのように。弟子たちは、イエス様の十字架と復活以前には、その弱さの前に耐えられませんでした。しかし彼らは、復活の主イエスと出会っています。裏切り、落胆、弱さを経験しましたが、それを越えてなおわたしたちを憐み、赦し、愛し、包む、神の恵みを知っている。聖書を悟るということは、その神のまなざしと憐みを知るということです。

 弟子たち、そしてわたしたちに、地上での働きが任されました。そこは天から遠く離れた場所です。わたしたちは自分の力で世にある誘惑や悪を退けることができるほど、強い者ではありません。しかしそこに、上からの力がある。わたしたちの内から来るのではない、高いところから訪れる、わたしたちを支える主の力強い祝福がある。そのことに力を受けて、わたしたちもこれから始まる新しい季節へと歩み出したいのです。

イエスを友として生きる

2015年5月10日(日)復活後第5主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書15:11〜17
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
 先週のヨハネ15章1〜11節に引き続き、十字架にかけられる前夜、イエスさまが弟子たちへ語った告別説教です。その地上の生涯の最後、弟子たちを世に残していくにあたって、イエス様は彼らに、そして今みことばを聴くわたしたちに、「互いに愛し合いなさい」という掟を残されました。そして、互いに愛し合うことで、「あなたがたはわたしの友である」と、イエス様は言われます。

 「あなたがたは、僕(しもべ)ではなく、わたしの友である」…僕(しもべ)は、主人の考えや気持ちを理解することなく、ただ主人に言われたことをします。しかし、友はそうではない。友は、相手の思いを大切にし、相手のことを考え、相手のために生きる(いつもそのような友人関係を築くことができればよいのですが…)イエス様とわたしたちとはそのような友人関係にあるのだと、そしてイエス様がこれからいなくなっても、私たちが互いに生かしあういのちを生きるとき、わたしたちはイエス様の友なのだと、主はそういわれるのです。

 イエス様が友だなんて、恐れ多い…そう考えるかもしれません。特に「わたしの命じることを行うならば…」この言葉の前に、わたしたちは沈黙します。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」この言葉の前に、わたしたちはさらに言葉をなくします。その言葉にふさわしいものではない自分の姿を、自分でよく知っているからです。自分の中からは良いものなど何も生まれないのではないか…そのような自分をよく知っているからです。

 しかし、しかしです。そのふさわしくないわたしを、「友」と呼んで下さる方がいます。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節 I have called you friends、原典及び英語聖書では友と「呼んでいる」)。主イエスのご命令は、常にイエス様からの宣言と背中合わせです。「つながっていなさい」には「わたしもあなたがたにつながっている」から、「互いに愛し合いなさい」には「わたしがあなたがたを愛してきたように」、「もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばず、わたしはあなたがたを友と呼」んでいる、そして「わたしがあなたがたを選んだ」。

 そしてイエス様はまさに「友のために命を捨てる」の言葉の通り、十字架の上でわたしたちのために、命をささげ尽くしてくださいました。わたしたちが神の前に生きる者となるために、十字架の上で神に捨てられた者となられた、「ここに愛があります」(ヨハネの手紙T4章)。そしてそれはわたしたちの側にそれにふさわしい資格があったからではないのです。イエス様は、「何の資格があって」あなたがたを選んだか、というそのことは語られません。そうではなく「何のために」あなたがたが選ばれたか、そのことを示されます。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その身が残るようにと」、あなたが神に結ばれて生き生きしたいのちを生きるようにと。相手を生かす命を生きるようにと、そのために主は、こんなふさわしくないわたしを選んでくださったのです。

 「命を捨てる」…この言葉の前に、わたしたちはしり込みします。しかし、それはわたしたちにむやみにいのちを棄てよ、無駄にせよといわれているわけではないでしょう。イエスが、わたしたちのために命を捨ててくださった。それくらい、あなたは愛されている。だから、この愛に留まって、失敗だらけかもしれないけれども、相手を生かす命を生きよう。このような思いを持って、このイエス様の言葉を受け止めたいのです。

あなたをつかまえた!

2015年5月3日(日)復活後第4主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書15:1〜10
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 イースターからちょうど、一か月が過ぎました。まだ復活節は続きますが、先週までは「復活の主と弟子たちとの出会い」が語られたのに対し、今週からは、主の復活を祝ったわたしたちがこれからどう生きるのか、復活のイエス様とともに生きるとはどういうことかを考える時です。ことを聖書から聞くのです。

 「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」というイエス様の言葉が語られています。ぶどうは聖書の中によく出てくる植物であり、渇きをいやす果物であり、ぶどうから作るワインはいきいきとしたいのち、神の喜びの象徴です。イエス様とつながることで、その人は生き生きとしたいのちを送り、豊かに実を結ぶ。しかし、少し不安になる言葉もあります。「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」ぶどうの枝は弱く脆い植物です。自分だけで生きることはできず、自分に水や養分をくれるものとつながっていなければ生きていけないのです。

 しかし、わたしたちは「まこと」でないぶどうにつながることがあります。お金や地位や名声、自分の知恵や力、あるいは好きな人…それらは確かにある程度わたしたちを潤してくれます、しかし、それらが失われやすいということも私たちは知っています。だからこそ、わたしたちが生きるのに必要な栄養をくれる「本物」につながらねばならない、そしてそれがイエス様だというのです。

 しかし、私たちにはイエス様が見えず、不安になるときがあります。また、自分はしっかりイエス様につながっていますと、自信を持って言えない時があります。今日の説教は、イエス様が十字架にかかられる前の晩、逮捕される夜に語られた言葉でした。つながっていなさいといいながら、イエスご自身がこの後すぐ、十字架の上で無残な死を遂げられ、弟子たちも逃げ去り、つながりは失われてしまうのです。

 しかし、それでは終わらなかった。イエス様はその十字架から復活し、もう一度弟子たちに手を差し伸べてくださった。主は言われます、「わたしもあなたがたにつながっている」。つながりが切れてしまったと思われるところで、しかし、キリストがわたしたちを捕まえてくださっている。

 今日の使徒言行録は、イエス様の十二弟子の一人であるフィリポが、旅の途中で出会ったエチオピアの役人に、イエス様の福音を伝える場面。しかしこのときフィリポは、エルサレムで起こったキリスト教への大迫害により、「寂しい道」を逃げている途中でした。迫害、逃亡、一見そこには主はおられないように思えます。仲間や教会とのつながりも切れてしまったかのように思えます。しかしその主がおられないように思える所で、エチオピアの役人との出会いという、大きな神の働きが起こったのだと聖書は伝えるのです。

 イエス様は、御自分をぶどうの木にたとえると同時に「父」すなわち神さまを、その世話をする農夫にたとえられました。「実を結ばない枝は取り除かれる」これはもちろん裁きという恐ろしい側面もありますが、しかし、剪定はぶどうにとって、必要なことでもあります。そして、農夫が、実りの時までぶどうの剪定をし、整えるように、わたしたちのいのちはそうやって最後まで神さまの言葉によって世話をされ、ととのえられていくということでもあるのです。つながっているからOK、あとは自分で成長しなさい、ということではなく、神さまが日々わたしたちを整えてくださる、その見えない神さまの手にわたしたちは信頼したいのです。

この、愛のない私にも

2015年4月25日(日)復活後第3主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書21:15〜19
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
 今日の聖書の箇所は、ヨハネ福音書のほぼ終わりの部分であり、復活のイエス様が、一番弟子であったペトロを、宣教者・牧会者としての働きへと送り出そうとする場面です。イエス様はここで、「わたしを愛するか」とペトロに問いかけ、ペトロの答えに応じて、「わたしの羊の世話をしなさい」と、命じられます。

 しかし、この箇所では同じ「愛する」ということばでも、イエス様とペトロの言葉には違いがあります。イエス様がおっしゃる「わたしを愛するか」、ここには無償の愛を意味する「アガペー」が使われている。しかし、ペトロは人間同士の愛を意味する「フィレオ」と言われることばを用いているのです。ある英語聖書ではこれを各々「Love」「have affection」と訳し分けてありました。

 ここでのイエス様とペトロのやり取りはこうです。「ヨハネの子シモン、わたしをアガペーの愛をもって愛するか」「はい、主よ、わたしがあなたをフィレオの愛をもって愛していることは、あなたがご存知です。」二度目も同じです。

 わたしたちはこの、イエス様が「三度」シモンにおたずねになった、ということから思い起こす出来事があります。あの十字架の夜、裁判で有罪判決がくだったイエス様のことを、このペトロが「三度」知らないと言った、というできごとです。ペトロもあの夜を思い起こしたでしょう。だからペトロはイエス様に対してイエス様が要求される「アガペー」の答えを返せないのです。弱い自分を知ってしまったペトロはアガペーなどとは口が裂けても言えないのです。

 イエス様がここで彼に三度も尋ねたのはなぜでしょうか。イエス様の意地悪でしょうか、「私の羊の世話をしなさい」とは彼に対する罰なのでしょうか。そうではありません。イエス様はここで、ペトロの全てをまっすぐ見つめたうえで、ペトロにも見つめさせたうえで、それでもわたしはあなたに大切な役目をゆだねる、と言って下さっているのです。  ペトロへの三度目の問いかけは、前の2回とは異なっています。三度目に、イエス様の方が、その問いかけを新しいものにされたのです。「ヨハネの子シモン、あなたはフィリアの愛を持って、わたしを愛するか」。イエス様は三度目に、ペトロに合わせて「フィリア」の愛をもって、問いかけられたのです。アガペーで愛せないのならもういいよ、とは主は言われないのです。

 アガペーは、相手が自分のことをどう思っていようが、一方的に相手を愛する愛。それに対し、フィレオは相互の兄弟愛、相手の愛をもって成立する愛を言います。お互いの間の愛をもって成立する愛を言います。

 わたしたちの中には、何があっても一方的に相手を愛する愛などありえません。しかしそのわたしたちを、どこまでも愛してくださる方がある。その方が「フィレオの愛でいい、わたしがあなたを愛するから、その愛に応えて、わたしを愛してくれるか、わたしがあなたに与える責任を担ってくれるか」と言われるのです。わたしたちはこの愛に支えられている。

 わたしたちは、十字架と復活のイエス様の前に、見たくない自分を見ることにもなります。しかし、そのわたしを愛し、支え、用いたいと思って下さっている方がおられるのです。その方の愛に応えることが、復活の主と出会ったわたしたちの責任であり、恵みなのです。

復活の主と出会う場所

2015年4月19日(日)復活後第2主日礼拝説教要旨 ヨハネによる福音書21:1〜14
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 復活の主に出会い、「主を見て喜んだ」(ヨハネ21:20)はずの彼らが、なぜまたティベリアス湖(ガリラヤ湖)で、元の漁師に戻っているのでしょうか。理由は書かれていません。とにかく彼らは、復活の主に出会ってすぐに宣教に出かけるのではなく、ここでは漁に出ています。

 ガリラヤ湖では、夜が漁の時間帯だったそうです。昼は湖の底に沈んでいる魚たちが、夜になって水深の浅いところに昇って来るのを待って、漁を行う。しかし、ただでさえ真っ暗な夜の漁、そこで一晩中格闘して、何も取れないこともある。そのときの疲労感は、とてつもないものだったことでしょう。そして、疲れ果てた彼らに、岸辺から声をかけてくる誰かがいます。

 「何か食べるものがあるか」これは、聖書のギリシア語原典のニュアンスでは、弟子たちに質問しているというより、「何も食べるものは採れなかっただろう?」というくらいの、確認のニュアンスのようです。物語を聞いている私たちからすれば、ここで彼らがイエスと分からなかったのは不思議です。しかし私たちには確かにこういう時があるようです。イエスが来て、一緒に歩いているのに、イエス様だとわからない。けれども、一晩中漁をして、それでも何も取れなくて疲れ果てている、しかしそこにふと岸辺の方から、わたしたちに声をかけてくださる方がおられる。

 そして、岸に立ってるあいつはこんなことを言う。「舟の右側に網を下ろしてみたらどうだ」。さんざん夜通し漁をした後です。あきらめようとしているところですが、そんなに言うならだめもとで最後の一回、というくらいの気持ちだったかもしれません。とにかく彼らはもう一度、網を下ろしてみます。しかし、その網は引き上げることができないほどの魚で満たされました。それまで空っぽだった網が、その人のことばによって、満たされた。そういえば、前もこんなことがあった。イエス様と初めて出会った時が、こうであった(ルカ5章)!そこで、ひとりの弟子が気づくのです。イエスさまだ!と。

 シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。ここは、シモンはイエス様の前に出るのに裸では失礼だ、と思ったので上着をまとったようです。そして、もうひとつ、イエス様の前にとても自分は裸ではいられない、とも思ったのかもしれません。イエス様を裏切ったペトロ、とりかえしのつかないことをしてしまったペトロは、もうありのままではイエス様の前に立つことができないのです。

 しかし、上着を着たまま泳ぎにくい状態でそれでも必死で岸に戻ったペトロと取れた魚を大事に抱えて戻ってきた弟子たちを、赤々と燃える炭火とあたたかい朝食が、冷え切ったペトロや他の弟子たちを迎えてくれるのです。この食卓は、主の思いがつまった食卓です。主イエスがわたしたちのために自ら準備をしてくださった、ゆるしと和解の食卓です。イエス様からの大サービス!それが、この礼拝(サービス)、復活の主と出会うことができる場所なのです。

 「弟子たちはだれもあなたが問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」この方こそ、わたしたちの主人である方だ。わたしたちがイエスを主であると認める前から、イエス様はわたしたちを岸から見つめ、みことばによって、わたしたちを助けてくださる。そして、わたしたちが帰ってくるときのために食卓を整え待っていてくださっている。この方がわたしたちの主人である。そのことに信頼して、わたしたちはまた、湖に網を下ろすものでありたいのです。

パッション−受難−

2015年3月29日(日)枝の主日・受難主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書11:1〜11,14〜15章
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
 本日の礼拝は、「枝の主日(Palm Sunday)」、イエス様が十字架にかけられる一週間前、群衆か ら「ホサナ!」という歓喜の声と共に、棕櫚(しゅろ)の葉を打ち振って迎えられた、というでき ごとに由来する日曜日です。しかし、それと同時に今日は、「受難主日」でもあり、わたしたちは 長い長い、イエス様の受難の物語を聞きました。

 今日、配られたた棕櫚の十字架は、持っていると小いことがあるとか、うまくいくとか、そのよう な性格のものではありません。イエス様の十字架のできごとが、2000年前のことではなく、いま のわたしたちのものでもあるということを、想起するためのものです。わたしたちが本当に心から イースターを祝うには、わたしたちはやはりその前に、通らなければばならないところがある。それ がこの受難のみことばを自分のこととして受け取るということです。

 イエス様は、わたしたちの世界の中に来られました。わたしたちのいのちの中に来られました。 エルサレムは、旧約聖書において神の都であり、旧約の信仰においてもっとも大切な神殿があると ころであり、神が王として支配されるのだと約束されていたところです。そこにイエス様を迎えた 群衆は、当初「ホサナ、ホサナ」(助けてください、お救い下さいという、救い主を迎える時の叫 び)と喜んで叫びました。しかしそわわずか数日後、その声は「十字架につけろ!」という叫びに 代わります。弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げます。ペトロは、イエス様のことを三度「知ら ないJと否定します。ポンテオ・ピラトは群衆の声に迎合して、最終的に死刑の判決を下します。

 これはわたしたちの姿です。日々の歩みの中でイエス様を生かす道と十字架につける通があれば、 わたしたちは、イエス様を十字架につける道を選び続けてきた。「十字架につけろ!」と叫び、茨 の冠をかぶらせ、葦の棒で頭を叩き、唾を吐きかけ、拝むふりをして侮辱し、頭を振りながらイエ スをののしった。そして、イエスは神からも人からも棄てられて、死んだ。

 しかし、わたしたちがイエスを殺した瞬間、、「神殿の垂れ幕が上かち下まで真っ二つに裂けた」 (38節)とあります。これは、エルサレムの神殿のいちばん奥まった、普段は誰も入れない「至聖所」 で、神と人との間を隔てていた垂れ幕のことを言う。それが、イエスの死の瞬間に裂けた。 わたしたちはイエスを十字架にかけて殺した、しかしその十字架の死によって、わたしたちと神さ まとの問の隔てが取り去られた。その死によって、神さまとわたしたちの壊れていた関係が、回復 されたというのです。

 主は、エルサレム入城から、このすべてを計画されていたように、記されています。それはわたしたちに対する、 神の「パッション」の計画です。「パッション」という英単語、本来この言葉はラテン語のpassionem(苦しみ) から来ていますが、しかし同時に「情熱」「強烈な感情」という意味があります。主の十字架はパッションである。 それは、神からわたしたちに対する強烈な思いです。 十字架を覚えるということは、わたしたちの背きの姿を見ると同時に、ごのイエス様の受難を通してあらわされた、 「あなたをわたしのもとに取り戻したい」という、主のわたしたちへの究極の思いを見るということなのです。

 十字架には、神のわたしたちへの想像を絶する愛があらわれている。わたしたちは、この十字架を深く覚えつつ、この受難週を過ごしたいのです。

ひとりじゃないよ

2015年2月22日(日)四旬節第1主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書1:12〜13
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 キリスト教の暦では、「四旬節」という季節に入りました。「受難節」ともよばれ、イースター(復活祭、今年は4月5日)前の40日間(日曜日を除く)のことを指す、教会の暦です。そして、毎年、その四旬節のはじまりの日曜日に、わたしたちは「イエスさまが荒れ野でサタンから誘惑を受けた」という聖書の箇所を読むことになっています。

 サタン、というと私たちは角ととがったしっぽが生えているような悪魔を想像するでしょうか。しかし聖書の中でサタンというのは「誘惑する者」「わたしたちを神さまから引き離そうとするもの」のことを指します。人格的な悪魔の存在を信じるかどうかはさておいて、聖書で悪魔と言われるとき、それは決して、単に悪事に誘う、というだけではありません。神さまを疑うこと、神さまの愛を疑うこと、希望を失う。それらもすべて、わたしたちにとっての厳しい誘惑です。その中でわたしたちは神さまにつながっている自分を信じられなくなり、自分に与えられている責任を信じられなくなり、すべてを放棄してしまいたくなる。

 現実は、「どうしてこんなことが」の連続です。こんなはずではなかった、と思うことの連続なのです。しかし、そのわたしたちに、荒れ野に「追いやられる」イエス様の姿が示されます。

 「霊はイエスを荒れ野に送り出した」この「送り出す」とは、厳密には「追い出す」「投げ捨てる」というくらいの意味の乱暴な言葉です。この「霊」というのは神様の霊のことで、つまり神さま御自身が、イエス様を荒れ野の中に放り込んだ。荒れ野と言うのは、いのちの危険に絶えずさらされる場所です。いのちの保障がない場所です。「荒れ野の人」というとき、それは「捨てられた人」と同義語だったと言います。神さまは、その直前でイエス様を「愛する子」と呼んでおられますが、その神さまがイエス様を荒れ野に投げ捨てた。

 そのイエス様の歩み、その行き着くところは十字架の上で罪人として死なれることでした。マルコ福音書によれば、その最後の言葉は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(新約聖書マルコによる福音書15章34節)でした。神の子であるはずの方が、神から捨てられたものとしての苦しみを味わわれたのです。

 しかし、その方によって、新しいことが起こります。今日の福音書にはこう書かれています。イエスさまが荒れ野におられるとき「野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていた」と。荒れ野の中で肉食獣とイエス様とが共にいる。やぶれていた人間と動物との関係、動物同士の関係、神様に作られた被造物同士の関係が、イエス様によって回復された。  この世は神から離れて荒れ野のようになっていたが、神さまはイエスをその只中に放り出すことによって、この荒れ野を祝福された状態に回復してくださったのです。わたしたちが生きているところは、なお、荒れ野です。しかし、この荒れ野は、すでにイエス様が来てくださった場所である。ここはすでにキリストに引き受けられている場所である。そのイエス様によって、わたしたちはもはやひとりではない、ひとりじゃないのです。荒れ野に追い出され、そこでわたしたちと同じように、いやおそらく私達よりずっとずっと苦しい誘惑を受けられたイエス様、その方こそ、神さまからの「ひとりじゃないよ」というメッセージです。

 わたしたちはこの中で、イエス様に出会うことができる。そのことに信頼して生きていくことが、キリストを信じる、ということなのです。

姿を変えるほどの愛

2015年2月15日(日)変容主日(顕現節最終)礼拝説教要旨 マルコによる福音書9:2〜9
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
 教会の暦では、「変容主日」を迎えています。ちょうど、クリスマス後の「顕現節」と来週から始まるイエス様の十字架を覚える「四旬節」の合間の季節です。このときにわたしたちは毎年、この不思議で現実離れした、「高い山の上でイエスの姿が輝く栄光の姿に変わる」というできごとを聖書から聞きます。

 このときのイエスはこの世のどんなさらし職人の技術も及ばないほどに真っ白だった。それは、人の手ではつくり出すことが出来ない輝き、神さまの輝きです。それがペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子の目の前に現れている。そして「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。モーセとエリヤは当時の聖書の民にとって、それぞれ旧約聖書を代表する人物です。そして当時のイスラエルでは、神の救いが実現するとき、この二人が再びやってくると信じられていました。この輝くイエスさまの中に、神の救いを待つ人たちが見たくて見たくてたまらなかったものが、ここで実現しているのです。つまりここに、神の国が現れている。

 ペトロを筆頭とする弟子たちは、この素晴らしい光景にすっかり舞い上がってしまっています。ペトロに至っては「自分で何を口走っているのかわからなかった」と、ひどい言われ方をされている。しかし確かに、ここでペトロは自分が言っていることと、この光景の意味するところが食い違っていることが、わかっていなかったのです。「ここに仮小屋を三つ立てましょう」。仮小屋とは、テント(幕屋)のことです。特に聖書の中で、幕屋とは神さまが現れる時に留まる場所とされていました。ですからここでペトロが仮小屋を立てようというのは、この光景をここにとどめよう、イエス様のこの姿を、人知を超えたこの輝きをこの高い山の上にとどめておこうというわけです。

 しかし、そのペトロに対しての神さまの答えは、こうでした。「雲が現れて彼らを覆い」、つまり彼らの姿は覆い隠されてしまって、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。そして、あたりを見渡す弟子たちに、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」のです。それが、仮小屋を造ろうというペトロに対する、それが神さまの答えでした。

 わたしたちは、けがれがないもの、きよらかなもの、完全無欠なものをよいとしますし、そうあらねばならないと考えてしまう節があります。そして。ときに自分もそうあらねばならないと自分を追い込みます。しかし、そのわたしたちに対して、神さまはただ、イエス様を示されるのです。けがれがなくきよらかで、完全無欠であるはずの神の子が、不完全で欠陥だらけの「ひと」の姿を取って、わたしたちののただなかに宿られた。イエス様はもう輝いておられない、それどころかこの方は、これから山を下り、十字架に向かって歩まれます。しかし、そのこの世の現実の中に先立って行かれるイエス様、わたしたちのためにずだぼろになってすべてをささげ尽くされるイエス様、しかしこのイエスという方の中に、高い山の上から降りて、十字架に向かって歩まれるそのイエス様の中にこそ、神の私たちに対する思い、ほんとうの神の輝きが現れている。

 本当の天国は、決して手の届かない「あの世」的なものではなく、この世界の現実の只中にこそ現れるのです。決して、高い山の上にとどまっているのではなく、ともに山を降り、そのイエス様のみことばを聴きながら、この世界の只中を歩まれるイエス様と生きるのが、わたしたちの信仰の歩みなのです。

屋根を壊すほどの愛で

2015年2月8日(日)顕現節第6主日礼拝説教要旨 マルコによる福音書2:1〜12
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
 とても印象的なエピソードが語られています。当時の一般的なパレスチナ地方の住宅のは、材木の梁に木の枝を編んだものを、粘土で覆い固めたものだったようで、構造上、屋根を破るのは決して難しいことではなかったようです。しかし、それでもいきなり屋根が破られてそこから病人の寝床がつり降ろされて来たら。イエス様にもそこに居た人たちにも泥や木の枝がばさばさ降りかかって来たでしょうし、イエス様はみことばを語っておられた、それも中断されたことでしょう。イエス様にも泥やほこりが降りかかったでしょう。

 しかし、そうまでしてでも、その人をイエス様のところへ連れて来たかった。その4人の男性の思いを見て、イエス様は感銘を受けたかのように「あなたの罪は赦される」と、この病気の人に向かって宣言されます。ただし、それがその場にいたファリサイ派の人々に、「神への冒涜だ」と、受け取られることになる。そしてその彼らの心の呟きに対して、イエス様は「人の子(イエス様のこと)が罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とこの中風の人に対していやしの奇跡をおこなわれるのです。

 「中風の人に『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか」。単純なようで、実は深い問いかけであると思います。確かに「起きて歩け」ということの方が、難しいこと、無茶なことのように思えますが、私たちにとって実感を得ることが難しいのは、実は罪の赦しの方ではないでしょうか。自分の存在が赦されている、そのことを口で言うのはたやすいけれども心から実感することはとても難しい。特にこの時代、重い病を得るということはその人が何らかの罪をおかしたからであり、神が怒りを発したからだ、という迷信のようなことがまかりとおっていました。ですから、当時の考え方から言うと、この中風の人は神から受け入れられていないということになるのです。

 しかし、その人に対して、神さまのところから来られたイエス様が、いやしを行われる。口でいうのはたやすくても実際にはそんなことは起こりえないと思われる「起きて、床を担いで家に帰りなさい」というご命令が、実際にそこで起こった。これはとりもなおさず、目には見えない、そして実感することが難しい「罪の赦し」もまた、その人に確かに起こっているということのしるしです。イエス様はここで、病がいえるより先に、「あなたの罪は赦されている」と語られました。あなたはすでに、赦されて神に受け入れられている。あなたの存在は、病が癒えているかどうかにかかわらず、すでに神様に受け入れられている、ということなのです。  ここで、「中風の人の信仰を見て」ではなく「その人たち」、すなわち彼を連れてきた人たちの信仰を見てとイエス様がおっしゃっているのが印象的です。「あのイエスという人にこの人を連れて行きさえすれば、何とかなる。」「イエス様なら、何とかしてくれる」この中風の人を思い、屋根まで壊すほどの彼らの想いが、人垣を越えて、イエス様のところに届く。それはわたしたちにとっては、誰か大切な人のために祈る「とりなしの祈り」だと言えるでしょうし、いまこうしてイエス様のもとに集うわたしたちを支えてくれている、見えない誰かの祈りでもあるでしょう。たとえ目には見えなくても、隔てがあるように見えても。イエス様は必ずその祈りを聞いて下さいます。

さあ、出て行こう

2015年2月1日(日)顕現節第五主日礼拝・教会総会説教要旨 マルコによる福音書1:29〜39
すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 町中の人が、戸口に集まった。 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
 「人は、神と共に踏みとどまるのではなく、道を踏みしめて歩むのである。」ドイツの牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーは、このように言いました。教会の宣教は、教会に集まるわたしたちが満たされればそれでいい、という性格のものではありません。イエス様の活動は、何よりも「福音」を告げ知らせるためのものでした。福音、つまり神さまからの救いの知らせ、良い知らせを届けるために、イエス様は「近くの町や村へ行こう」と言われます。

 「みんなが捜しています」(マルコ1:37)とシモン・ペトロは言いました。シモンの言う「みんな」とは、彼の町であるカファルナウムの人たちのことです。シモンの住む町の中で、イエス様は奇跡を行われた。そのイエスを引き止めたいという気持ちが、ペトロの中にも、カファルナウムの人たちの中にもあります。イエスさまに自分たちのところにずっととどまってもらって、奇跡を行ってもらいたい。

 しかしそのわたしたちをイエス様は「さあ、近くのほかの町や村へ行こう」と招かれるのです。これは「私は行く」ではなく「あなたも一緒に行こう」という、宣教される側から、宣教する側へとなることへの招きです。イエスのまなざしは、わたしたちよりもずっと広いところ、ずっと先を見ておられ、わたしたちはそのイエス様と、一緒に働くものとなる。この教会総会の日に聞くのに、ふさわしいみことばであると思います。

 しかしわたしたちは弱いですから、「でもイエス様、わたしたち自身のことは、わたしの家族のことは・・?」「わたしたちもまだまだたくさん恵みが必要なんです」と考えるかもしれません。もちろん、そのとおりです。しかし、今日の福音書の冒頭で、イエス様はシモン・ペトロのしゅうとめが、熱を出しているということを家人から教えられ、そのそばに行き、手を取って起こし、熱を追い払われます。その後、このしゅうとめはイエス一行をもてなす側になる。

 ただ、報告に来た人たちはシモンの姑が熱を出して寝ていると言っただけです。ここでイエス様は、彼らがイエス様に来てくださいと頼むより先に、「そばに行き」「手を取って」(ギリシア語の原典ではここに「強く」「しっかりと」という意味の言葉が入っているそうです)起こしてくださるのです。そしてそのしゅうとめがまた、起き上がって今度はもてなすもの、恵みを分かち合うものとされていくのです。シモンはこの直前の1章16−20節では、イエス様の招きによって、それまでの自分の生活や家族をすべて投げ出してしたがったかのように書かれているのですが、しかしそのシモンのしゅうとめのことも、イエス様は確かに心にかけてくださるのです。

 それでもなお、私たちは疲れ果てることがあるかもしれません。しかし、そのわたしたちを深いところで支えるものがあるのです。「近くの町や村へ行こう、そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」・・・これは単にカファルナウムから出てきた、という意味ではありません。「そのためにわたしは『神のもとから』出てきたのである」、とイエス様はおっしゃっているのです。ヨブ記の日課に言われるような、奴隷のような、傭兵のような(ヨブ7:2)人の子としてのいのちの中に、イエス様は出てきてくださった。そして「わたしは宣教する」。わたしが宣教する、わたし自身があなたに先立って宣教すると、イエス様は約束して下さっています。その神さまにわたしたちも信頼して、今年一年の歩みをゆだねていきたいのです。

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